さようなら、天使

 隣の部屋からは野太い声の熱唱が聞こえる。最近流行りのVチューバーの曲だ。

「ドッキドッキしてルージュ! まだ早い!」

 思わず廊下側を見る。すると店員がすりガラス越しに笑いを堪えているのがわかった。

 笑ってやるな。大好きは止められないのだ。


「聞いてます?」


 言って本名不詳の天使推し隊さんは、僕を不思議そうに覗き込む。

 あ、やば、隣のおじさん? が気になって、まるで話を聞いていなかった。


「え、っと。ライブですよね?」


 僕は思い出したように、口にする。

 すると目を丸くしていた愛♡天使Tシャツの男は、ニコッと笑いかける。

 気持ちが悪い。どうしよう。あ、歯に青のり。


「そうです。彼女が望めば、ですが……」

 言葉を連ねるにつれて顔が曇っていく。

 その理由は、僕にもわかっている。


「彼女は死んでも、ライブをやりたいはずです」


 なぜ死んでしまったのか、それがわからないのだ。

 僕は二ヶ月以上彼女と共にいるが、その理由には踏み込んだことはない。

 デリケートすぎて触れられないというより、そんな重い話をわざわざ聞きたいとは思わないから。

 僕は小声で隣に浮いている緋色に尋ねる。


「お前なんで死んだの?」

「あ? 知らねえよ。ってか覚えてねえ」


 ああ、そうですか。こいつは本当に適当だ。

 自分のファンを前に照れて顔を真っ赤にしたかと思えば、今や、退屈に耐えかねて、マイクをいじり始めている。

 マイクじゃお前の声は拾えな──。


「配信……。とかどうですか?」


 僕はおずおずと天使推し隊に尋ねる。

 配信とはもちろん、ライブのことだ。彼女の声は、何かを通さなければ、生きている人間に届くことはない。それは渋谷のスクランブル交差点で実証済みだった。


「あれです、よく聞くじゃないですか。赤外線センサーとか、マイクとかカメラで、幽霊の存在証明している番組。あれを配信でできませんかね」


 僕の言葉に、天使推し隊は微妙な顔で丸い目で見つめてくる。

 まだわからないか。


「緋色、マイクに向かって声出して」


 今度は緋色に水を向ける。

 うまくいけば、ライブをやることもできる。協力者がいれば、幽霊でも配信活動ができるようになるかもしれない。


「え、いいけど。あれじゃね、スクラップ現象?」


 捨ててどうする。ラップ現象だろ。

 僕はマイクのスイッチをオンにして、緋色の口元に近づける。

 薄い唇が、ゆっくりと開き、声を発した。


「……う? 聞こ……え、て──る?」


 そういえば、心霊番組で幽霊の声が、はっきりと聞こえているところは見ないなと、僕は思い直す。

 緋色のラップ現象に、天使推し隊は、駅前の時のように、突如涙を流し始める。


「やっぱり、ここにいるんですね。俺の天使が……」


 緋色は宗教か何かを始めたら、成功するだろうと、思えるほどにしみじみと語っている。

 でも、問題は残ったままだ。幽霊の声がまともにマイクに乗らないのでは、歌うどころか、話すことすらままならない。

 考えている間にも、緋色は声のトーンを上げ下げしてみたり、ボリュームをいじってみたりと試行錯誤を続けていた。

 だからか、天使推し隊の周りの床は涙で水たまりができてしまうほどだった。


「声さえ届けば、ライブができるんですけどね」

「俺と会うことに決めてくれて本当にありがとうございます」


 大号泣の天使推し隊は、カラオケのタブレットに指を滑らせる。

 モニターは延々と流れていた広告が切り替わり、イントロがピアノ調で流れ始めた。


「サマータイム・アンソロジーです。緋色さんの好きに歌ってみてください」


 今さっき、声が届かないと言ったばかりなはずと、僕は天使推し隊を見つめる。

 すると気持ちの悪い笑顔ではない。清々しさを纏った笑顔を向けた。


「え? 歌えばいいの?」

「やってみてよ」


 僕にはマイクを通さない声が聞こえているが、二台のスピーカーから聞こえる彼女の言葉は、先ほど同様に、まともには届いていなかった。

 ギターのリフが鳴り、イントロが終わる。ピッピッピの三拍子が、歌い始めの合図。

 緋色は、僕の持つマイクに向かい、歌い始める。

 死んでもプロだ。

 ゆったりとした落ち着きのある曲調に合わせ、鼓膜を撫でるような優しい歌声が部屋に響く。


「え、歌えてる」


 驚く僕をよそに、天使推し隊は、当然だと言った表情でモニターを眺める。

 サビに差し掛かり、超高音が続く。それでも叫ぶような声にはならず、不思議と心が安らいでいくのを感じた。

 どうして歌えるのか。幽霊が見える僕が思うのもよくわからない話だが、心持ちとか、精神的な問題で片付けたくはない、と思う。

 自死を選ぶというのは、それだけ強い気持ちがあるということだと僕は思っている。

 だから、そんな強い気持ちを持っていても自死を選んでしまった幽霊の彼らが、死んだ先で気持ちを力にできるなんて、あまりに理不尽だ。

 二つ目のサビが終わり、ラスサビへ入る。

 横を見れば、涙を拭きながらモニターを必死に見つめる天使推し隊と目が合った。


「喋るのは難しそうですけど、ライブで歌うならできそうじゃないですか?」


 希望を宿した瞳で僕をまっすぐに見つめている。

 僕はなんだか納得がいかない。

 死を選んだ理由すら、知らない僕たちが、彼女のライブを望むのは、エゴじゃないか。

 歌い終えた緋色はスッキリとした表情で笑っていた。


「緋色、楽しかった?」


 僕がいうと、彼女は八重歯を剥き出しに、頬を赤く染める。

 そして耳まで赤くして泣き始めた。


「どうした?」

「なんで死んだんだろうな、アタシ……」


 その目は後悔で暗くなっているように見える。

 涙声は震えて、スッキリと笑っていた彼女はその一瞬でどこかへ消えてしまっていた。

 天使推し隊は僕をみて、固まっている。

 肩を振るわせて言葉をゆっくりと紡ぎ始めた。


「よく言うだろ? 終わりよければ、全て良しって」

「そうだな、どんなに始まりがぐちゃぐちゃだろうと、終わりが最高なら、問題ないってやつだよね」


 緋色は、それにこくんと頷く。


「それで、終わりが一番印象に残るんだって考えたから、バンドの時はクライマックスで、全部ぶっ壊して終わろうとした」


 言って涙が枯れ始め、緋色はまっすぐに僕を見る。


「でもそれじゃ、終わりが最悪じゃん。だからみんなは次の日には違う方を見て、アタシなんて頭の片隅にも残ってなかった」


 緋色は俯く。僕は悲しげに感じるモニターの広告を、そっとリモコンで消す。


「今度こそって、配信頑張ったけど。日に日にめちゃくちゃにしたいって気持ちが大きくなっていって」


 緋色はそこで、何かを思い出したように、天井を仰いだ。


「だから、──ファンの見ているところで死のうって思ったんだ」


 天使は、破滅を望んでいた。

 破滅こそが、人の記憶に一番残るものだと、彼女はきっと知っていたんだろう。


「止めようとするコメントが、気持ちよかったのかな。これからコイツは一生アタシを忘れないって思えるから」


 僕は胸の奥からグツグツと込み上げてくる感情を、必死に押さえつける。

 隣にいる感情表現が豊かな天使ラブな男が、あまりに居た堪れない。

 この女が幽霊でよかったと、僕は心底思った。


「まあ、結果として、コイツもアタシを忘れないでいてくれてたわけだしな」


 言って指を差しながら笑う女が、僕には悪魔のように見えている。

 大勢を魅了する歌声を使い洗脳し、傷つけることで記憶に残ろうとする悪魔。

 今まで可哀想に思って、未練を解消させようと考えていた僕がバカみたいだ。


「ふざけんな、この人がどんな思いで、お前の歌を聞いて、お前を思って、お前をまたステージにって、してたのか分かってないのか?」


 スイッチの入ったマイクに声が載ってハウリングを起こす。

 それでも僕は言葉を続ける。


「この人は、純粋にお前を応援したくて、ファンになったんだよ。お前の奴隷じゃねえ!」


 僕の言葉は彼女には届かない。

 破滅することに狂ってしまったこの女は、もうどうしたって、成仏できないだろう。


「お前の未練は一生解決しないよ。人を傷つけ続けることでしか解消しないんだから。そう言うのを、この世でなんていうか知ってるか?」


 僕は天使に問う。

 緋色は僕を見て優しく微笑んで、首を横に振った。


「悪霊だよ。緋色は天使じゃない。悪魔ですらない。──ただの悪霊だ。祓われる前に消えてくれ」


 僕の頬を涙が伝う。

 なんとなくその理由をわかっていた。

 スクランブル交差点のライブを見て、人知れず公園で歌っているのを見て、今歌を聞いて。

 僕はもう緋色のファンになっていた。

 ファンの僕では、君を変えることはできないから。


「ごめん」


 蚊の鳴くような声で緋色が言う。

 僕は、顔を俯かせて、彼女の出ていく背中から目を背けた。

 ファンになってしまった僕は、もう君と同じ場所に立つことができない。

 きっとこのまま支配されれば誰も幸せになることはないのだから。


──これで、よかったんだ。

 僕は自分にそう言い聞かせた。

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緋色の天使──短編集 戸部 ヒカル @To_be_Arina

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