うちの天使が、悔しながら尊い。

 玄関を開けると、仁王像がいる。

 赤く怒りのオーラを幻視して、僕は狼狽えた。

 白髪混じりの短髪を逆立てて、丸太のように太い腕を組んでいる。

 そこにいたのは父だった。大学時代にはラグビー部で国体に出場した男の威圧感は、背にした玄関扉に押し付けられそうになる程、強烈なものだった。

 五十代後半とはいえ、帰宅部で筋力も並な僕では到底太刀打ちはできません──。

 僕は諦めて、謝り倒すことを選択する。


「本当にごめんなさい。連絡入れてなくて」

「そうだな、でも何回目だ。これで」


 低く腹に響く父の声に、僕は精一杯の謝意を伝えるために地面に接するほど低く頭を下げる。

 心なしか父の威圧感が薄れた気がして、フッと顔を上げて状況を確認した。

 父の後ろでは僕以外に見えていないのをいいことに、変顔や変な踊りで笑わせようとしている緋色が見えてしまう。


「ふふっ──」

「何がおかしい。何回目だと聞いているんだ」


 父の威圧感は再び増してしまう。

 あの天使、後でどうにかしてやろう。僕はそう心に誓って答えた。


「今年に入って六回目です……」


 僕の言葉に、父は指折り数えて、うんうんと頷いている。

 良かった、数は合っていたらしい。この後が難関であることを、僕は経験則で知っていた。


「そうだな、じゃあ、六回も同じことで怒られたお前は、どうやって治す」


 父の決まり文句だった。確か前回の改善方法は、『時計をこまめに確認して、連絡を入れます』と言った記憶がある。父も覚えているだろうから、同じ文言は使うことができない。


「毎日門限の十五分前にアラームをかけて、忘れないようにします」


 言って、僕は頭を下げると、「本当にごめんなさい」と付け加えた。

 すると父は、「はははっ!」と大きな笑い声を玄関で響かせる。

 いつの間にか威圧感は消えて、父は言った。


「アラームって、どれだけお前は忘れっぽいんだ!」


 明るい声色で笑う。

 僕も父の笑顔に釣られて笑ってしまった。それを見て、父は言葉を続けた。


「母さんが来る前に、部屋に戻れ。俺から言っておくから」

「ごめん」


 この後に母が来たら、僕がくどくどと長い説教を食らうことがわかっているからか、父は先頭に立って厳しめに叱ったのかもしれない。

 そう考えると威圧感の強い父を怖いものだとは思えなかった。


 僕が部屋に入ると、緋色はベッドに寝転んでウトウトと船を漕いでいた。

 この薄情ものは、うまく切り抜けようとしていた僕の邪魔をしようと変な踊りを披露していたのにもかかわらず、すぐに飽きて僕の部屋に戻っていたのだ。

 僕は部屋の壁掛け時計を見て、深夜一時を回っていることに気がつく。


「緋色、今日は公園行かないのか?」

「あ? 行かねえよ。何時だと思ってんだ」


 渋谷のことを気にかけて、緋色に気を使ったのに。返答はこれだ。まあ、いつものことだから慣れたけど。

 僕はベッドの上から払いのけるように手で仕草を取ると、飛び込み気味にベッドに沈んだ。


「なあ、そこ暗くないか?」


 部屋のクローゼットにすり抜けて入っていく緋色に僕は尋ねる。

 緋色は「うっせえ」と口パクで答えると、中に消えていった。


 翌朝、日曜日でバイトも休みの僕はスマホでまだ六時であるのを見て、二度寝を検討しながら、目を瞑った。

 しかし、スマホの通知音が鳴り、確認しようと画面に目を向ける。


『渋谷で天使と一緒にいた人へ。私は渋谷の路上ライブを計画し、実行したものです。一度会って話がしたいので、連絡をしました』


 ツイッターのダイレクトメールに、そのメッセージが届いているのを見て、僕はベッドから飛び起きる。

 スクランブル交差点のコスプレした人たちのほとんどがモニターに注目していた。僕のことを見ていた人はいないはず。何かのイタズラか? 僕はそう考え始めた。


「緋色、起きて」


 僕はクローゼットの中にいるであろう緋色に向けて投げかける。すると、ふわふわと揺らめきながら扉をすり抜けてやってきた。

 どうついたんだと疑問に思う寝癖をつけて。


「……なんだよ。まだ六時だぞぉ、ふわぁぁ」


 大きなあくびをして、ポリポリと頭を掻いているその手には、天輪のカチューシャが握られていた。

 やっぱ寝る時は邪魔になるのか、という言葉を飲み込んで、取り急ぎの要件を彼女に伝えることにする。


「これ見てくれ」


 僕はそう言ってスマホの画面を緋色へ向けた。

 眩しそうに目を押さえながら片目を半開きにして緋色は画面へと視線を向ける。


「このユーザーネーム、見たことあんなぁ」


 そう言って首をひねってうーん、と唸り始める。僕は寝癖で上にはねた前髪を慣らすように手櫛で整えながら彼女に尋ねる。


「緋色の元ファンとか?」

「あ? 元っていうな、元って」


 緋色は睨みつけてキレ気味に口にすると、あ〜、と声をこぼす。

 どうやら何かを思い出したらしい。


「天使推し隊って、10_Cの時のファンだわ」

「どんな人? やばい系?」

「知らねえよ。コメントしか見てねえし」


 僕は聞いてからその返答は当たり前だと、思い至る。

 配信していた側からすれば、コメントの内容がいくらヤバい人でも、実際にその人が犯罪者的にヤバい人かどうかの区別なんて、着くはずもない。

 ヤバいコメントを言う人ということはわかっても、リアルの姿は想像しかできないだろう。

 僕は納得の声をこぼす。


「そりゃあ、そうか」


 緋色は改めてダイレクトメールの内容を読み込むと、へぇ〜と声をこぼした。


「こいつには、アタシがあんなまともに見えてたのか。もっと過激にやりゃあ良かったな」


 言って緋色は何かを企むような笑みを浮かべて、僕に尋ねてくる。

 僕はその笑みを見て、またろくでも無いことを思いついたなと警戒して言葉を待った。


「んで、こいつと会えば、ライブできんじゃねえか?」


 緋色の悪巧みの笑みは、カーテンの合間から漏れる朝日に照らされて、透けるように輝いていた。

 僕は、会うことによって生じる不安を口に出す。


「まあ、そうだろうけど。ヤバい人だったらどうするの。緋色じゃ物理的に助けてはくれないじゃん」


 言うと、緋色は鼻で笑ってから、首の後ろから手を回してくる。

 幽霊に触られると、寒気がするからやめてほしいといつも言っているのに。


「ビビリだなぁ、一郎。大丈夫だ、こいつはきっと平気だ」


 何を根拠に、そんな言葉が喉まで出かかるが、のしかかる緋色の胸元に視線が向いて、狼狽えながら目を閉じる。そうしているうちに言おうとしていたことは喉の奥に引っ込んでいった。


「──べ、別にビビってねえし」


 狼狽した挙句、緋色の口調が移って変な言い回しをしてしまった僕は、自分の顔が熱くなっていくのを感じて、ゆっくりと息を吸った。


「じゃあ、いいよな」

「も、もちろん」


 そんな調子のまま、僕は緋色に乗せられて会うことを承諾してしまった。

 幽霊の胸元に狼狽してしまう自分の情けなさを呪いながら、ダイレクトメールを返信するために、スマホに指を滑らせる。

 昼頃になり、返信が来た。


「緋色、来週の日曜に池袋だって」

「おーう、りょーかい」


 生返事を受けて、緋色を見ると、ベッドにうつ伏せに寝転んでパタパタと足を動かしていた。押し付けられる胸元に視線が向いて、僕は咄嗟に窓の外を向く。

 胸元の空いたキャミソールは危険である。そんな教訓を得て、一週間を過ごした。


◇ ◇ ◇


 家から電車を乗り継いで、一時間ほど揺られて池袋に降り立つ。

 曇り空を見て、僕は不安になり天気予報アプリを開いた。

 そこには夕方十六時から傘マークが付いている。ジメジメとした日に限って付いていない自分の運を思いながら、東口に出る。

 相変わらず隣で暇そうにあくびをしているキャミソール女には、教訓を踏まえて、外に出るときはパーカーを羽織るように伝えていた。


「なんだよ、ガチガチに緊張しちゃって」


 にひひっと笑い、言った緋色は、首元に手を入れてきた。

 透けて通り抜ける怖気のような感触。


「ヒャぁ」


 と間抜けな声をこぼした。

 コロコロと笑いながら、たゆたう彼女を睨みつけながら、周りに頭を下げる。

 変人だと思われるから、人前でこいつと喋りたくない。


「──こんにちは! 君が宮代一郎くんでいいのかな?」


 僕はその声に振り返る。

 まず目に入ったのは、《愛♡天使》白字で描かれた黒のパーカーだった。細身だが、身長は僕と同じ180センチくらい。真っ黒い長髪に顎髭を生やして、第一印象は変な人だった。

 それを受けて、僕は警戒心を強く持ち、前髪で隠れた目で覗き込むように、彼を見る。


「あはは、警戒されてしまったね」

「まあ、そうですね。T P Oって知ってます?」


 思っていた事が思わず口からこぼれ出る。僕は慌てて口を塞ぐ。

 横では天使がケラケラと爆笑していた。


「知ってますよ。元会社員ですよ? あはは。いきなりですけど、ここら辺に彼女はいるんでしょうか」


 天使推し隊さんらしき人は、そう言って僕の背後に熱い眼差しを送っている。

 僕はジトっと彼に視線を送った。

 本当に場所をわきまえない人、マジでヤバい人かもしれない。


「こっちですね」


 僕は嫌々指し示す。照れ恥ずかしそうにピースする緋色を。

 どういう原理かわからないが頬まで赤く染めている彼女は、ポーズを変えて手を振り始めていた。

 天使推し隊は、その指先をじっと見つめてポロポロと涙をこぼし始める。

 その姿に慌てて、僕は尋ねた。


「え? 大丈夫ですか」


 すると、涙をパーカーから取り出したハンカチで拭きながら答える。


「あ、ごめんなさい。平気です、感動してしまって」


 愛が重いんだ、僕は少し引きながら思った。

 天使推し隊さんの提案でカラオケボックスに場所を変えて本題について話すことになった。

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