5 罪と罰
二冊目を手に取る。今度はかなり分厚く重い本だった。
本を開く。
また別の人の人生に私はもぐりこんだ。
次は大柄な男だった。
黒い服を着てマスクをつけ、スーパーに向かって歩いている。商品を探すふりをして「あるもの」を物色していた。自分の好みを見つけ、それに向かって歩を進める。「それ」が一人きりになった瞬間を見計らいトイレに連れ込んだ。泣いて叫ぶ口を大きな手で押さえ、服を乱暴に剝いでいく。自分の欲求が満たされると、泣き続ける「それ」の首元に手を伸ばし、力強く絞める。完全に息をしていないことを確認すると、その男は「それ」を予め持ってきていた大きな黒いカバンに入れスーパーを後にする。車で近くの雑木林に向かい、穴を掘り、そこへカバンごと「それ」を放り投げる。穴を埋めたあと、その男は何事もなかったかのように家に帰り、ノートのようなものに記録していた。
そう、私が見たのは凶悪な女子児童を狙った殺人犯だった。それも強姦をした上での殺害。この世界で最も残酷で非道な犯罪だ。
ひどい吐き気を覚え、とっさに我に返ってしまう。
ワタリが心配した顔で私を見ていた。
「大丈夫ですか? とてもひどい顔をしていらっしゃる」
「ちょっとね、まだ、全部見てないんだけど、これは酷すぎる。ここに残しておくべきよ」
「そうですか…少し休まれたほうが……」
「そうね、少し休むわ。ちょっと、私は見ていられなかった」
私が見たのはあの男の犯行の一片に過ぎないのかもしれない。あれだけの分厚い本の中に一体、どれほどの犯行があり、何人の子供が犠牲になったのか。果たして子供だけなのか。考えたくもないことばかりが私の頭をぐるぐる回っている。
あの男を私はニュースで見たことがなかった。
思い出したのは連日報道されていた女子児童の行方不明事件。防犯カメラに一切の姿が残ることなく、姿を消したと話題になっていた。もしかすると、あの男が犯人なのかもしれない。捕まることなく、寿命か別の理由で死んでいるのだとしたら、許されることではない。
不快感、悲しみだけでなくやり場のない怒りが込み上げてきた。
「ねえ、ワタリ」
「なんでしょう」
「ここの本ってさ、処分できないの?」
「と、言いますと?」
「私が破いて、燃やして、この存在を消すことはできないの?!」
驚いた表情でワタリが私を見る。
「……残念ですが、それはできません」
「なんで?!」
「ここは人間の夢……いえ、もう記憶と呼びましょうか。ここにはこれまで生きてきた人間のすべての記憶が記録されています。ある一つの存在を消すことは不可能です。私が説明した消滅とはすなわち、人間の記憶から消えることなのです。それ以外の方法での消滅は、何をご覧になったのかわかりませんが不可能なんです」
こんな話を聞いたことがある。
「「人間が本当の意味で死ぬときは、忘れられたときだ」」
どこで聞いたのかなんて覚えていない。だが、これを聞いた時の私はなぜか心が揺らいだ。それを今でも鮮明に覚えている。
ワタリの話を聞いていてこの言葉が頭に浮かんだ。
そうか。被害者の遺族は、自分が死ぬまで事件のことを忘れない。いや、死んでも忘れないかもしれない。事件を忘れないということが間接的にあの男を忘れないということにつながっているのだ。
そんな事例がいくつも重なり、ここの本棚に流されてきたのだろう。
「罪」という言葉と「罰」という言葉が持つ、人間の計り知れない大きな悪意をこの時私は初めて実感した。
「……そう、ごめんなさい。あなたにきつく当たってしまったわ。衝撃的過ぎて、冷静さを欠いていたみたい」
「無理もありません」
先の高揚感と自信は既になかった。今の私にあるのは、次に何が私を襲うのだろうという不安だけだった。管理人となったことを後悔している。
あの本を本棚に戻す。
せめてもの八つ当たりとして乱暴に置いた。角が多少凹んだが、そんなことはどうでもよかった。
次の本に手を伸ばす。
「もう再開するのですか?」
「ええ。逃げていてはだめなの。怖くても、つらくても向き合わないといけない。なんとなく、そう感じるの」
「そうですか……」
次の本に手を伸ばそうとする。私のその手は震えていた。
後戻りはできないと自分に言い聞かせる。
もう片方の手で震える手を抑え、私は次の本を手に取った。
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