4 少年
ここの本には活字を見ない。だからと言って絵本のようなイラストがあるわけでもない。開いた瞬間、そこに記録された夢というものが、まるで私自身が見た夢かのように頭に浮かんでくるのだ。
薄い一冊目に見たのは、少年の夢だった。名前もなにも知らないが、その少年は親に恵まれず、日常的に暴力を受けていた。抵抗することもできずに殴られる。
私自身も殴られているような気分になり、不快な気分を感じた。
そんな少年はある日、両親が寝ている隙を見てリビングのカーテンに父親のライターで火をつける。静かに自分は玄関から外へ逃げ、家の前にあった大きな植木鉢を玄関前に置いた。少しずつ燃えていく家と両親。少年はただその場に立ち尽くしてその光景を眺めていた。
罪悪感はなく、高揚感と開放感だけがあった。この私の感情はおそらく少年のものだ。
日常の "負" の感情とよばれるものが募り、この日に爆発してしまったのだ。その後少年は自分がやった、と警察に話し警察病院に入れられる。カウンセラーや児童相談所が少年の元を訪れるが、少年に笑顔は生まれない。あくる日、少年は警察の目を盗み逃走。逃げた先のマンションの屋上から飛び降り、自殺した。
鈍い痛みを感じることもなく、ここで私は我に返る。
一冊の本が終わり、私はそれをそっと閉じた。しばらく状況が理解できずに呆然としてしまう。
これは夢なんかではない。私が感じた少年の恨み、辛さ、悲しさ。そしてマンションから世界を見たときの喜び。間違いなく現実だ。
「これって、夢なんかじゃない」
「……」
ワタリは黙っている。
「まるでその人の人生を見ているみたいだった。夢にしては現実的すぎる。なによりあの感情が夢だなんて私には思えない」
「そうですか……やはり夢ではなかったのですか……」
「どういうこと?」
「……実は、私がここに初めて来たとき、ここにある本はすべてが夢だと教えられました。それをずっと信じていた。ですがおかしなことがいくつかあったのです。ここに来られた方は1日経つと姿がなくなってしまう。どれほど探しても見つかりませんでした。それでもしかすると、と思ったのです」
ワタリがそう話した瞬間。私はある可能性を感じた。何よりも恐ろしい可能性だ。
適応、そして中和。この二つの本当の意味についてだ。
「ねえ、なら中和ってまさか……」
「はい。そうです。もしもここにある記録すべてが夢でないとしたら、中和とは人の姿を消し、記憶となること。すなわち、ここの本として本棚に並ぶこと。私はそう考えています」
私の感じていた恐怖が込みあがってくる。
私は今、一人の人間の人生を覗き見た。自分の人生を守るために罪を犯した少年の短い一生を。そしてその少年はこの図書館に来て、中和された。少年の必死に生きた証がこんな場所に記録され、カビに飲まれている。生きるための罪。なんとも皮肉な話だ。
「それじゃあ、ここにある本って……」
「はい。おそらくすべてが誰かの人生の記録ということになります」
「そ、そんな……」
これからの私の感情の変化。何が私を襲い、何が私を苦しめるのかなんとなく想像ができた。
だが、同時に私にはとある疑問が生じる。
それは、なぜ私は中和されていないのか、ということだ。
この図書館に来ることができるのはおそらく、死者だけだ。となると、私はあのトラックに轢かれて死んだということになる。ならば、私の人生も記録の対象となるわけだ。中和が始まるはずだ。だが、私に起こったのは適応のみ。これは一体、どういうことなのだろう。
「となると、これからの作業はかなり危険なものになります。今回が運よく完全な "悪" ではなかっただけでここからは何があなたを襲うかわかりません。提案した私がこんなことを言うのはお門違いですが、これ以上、危険を冒す必要はありません」
ワタリの意見は最もなものだった。本来であれば私も同じ判断をする。
だが、なぜか私には妙な高揚感と前向きな自信があった。どんな "悪" の記憶にも動かされることのないという自身だ。知りたいという欲も強かったかもしれない。
「私なら大丈夫よ。帰らないといけないの。元の場所に」
「そうですか……そういうことでしたら続けましょう。ですが気をつけて下さい」
「わかったわ」
先まで開いていた本を本棚には戻さなかった。こんな場所に置かれてしまっては、あの少年が可哀そうに思えたからだ。
本についた苔を軽く払い、別の本棚へ運ぶための箱に本を入れた。
二冊目を手に取る。今度はかなり分厚く重い本だった。
本を開く。
また別の人の人生に私はもぐりこんだ。
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