2 水中図書館
「ここは一体……」
思わず声が出てしまう。
周辺を見渡すが人影は見えず、あるのは私を見下ろす無数の本棚だけだった。
「本日は……随分とお若い方ですね……」
どこからか声がする。
男性の声だ。
「ここですよ、ここ」
声のする方向は先に見た天井だった。見上げるとそこには水中を泳ぐようにゆらゆらと体を曲げながら漂っている青い龍の姿があった。その姿はいつかに夢で見たような青い色と白い色の鱗をまとい、海と空を自由に舞う、そんな美しさをしていた。
「龍…?」
「龍…ですか。龍に見えていますか……まあいいでしょう。初めまして。私、この図書館の案内役を務めています、ワタリと申します。ようこそ、水中図書館ローズへ」
「水中図書館ローズ?」
「はい。ここは現実と空想をつなぐ幻の図書館です。ここにはこの世界に生きるすべての人間がこれまでに見た夢を記録し、保存していると言われています」
ゆらゆらと舞いながら少しずつ私の方へ近づいてくる。
「な、なんのために?」
「さあ? それは私にもわかりかねます。この水中図書館に迷い込む人間は、決まって死の瀬戸際にいる者なのです。そうですね……あなたたちの俗にいう三途の川みたいなものでしょうか。あるいは走馬灯でしょうかね」
走馬灯、聞いたことがある。
人間が死に直面した際に見るという過去の記憶。
たしかに似ているかもしれない。
だけど……
「夢って、どういうこと?」
「そのままの意味ですよ。人間は誰しもが夢を見る。その夢とはその人間にとって大切な心の支えであり、目標であり、希望でもある。ここはそんな感情を記録しているのです」
今の状況がいまいち理解できていない。
私はここから帰ることができるのだろうか。というよりも私は今、生きているのだろうか。そんな不安さえも頭をよぎる。
「ここにある本はすべて夢、なんでしょう? この図書館も含めてなの?」
「前者の答えはYESです。ですが後者に関しては一概にどちらと判断することができないですね」
「そ、そうなの……現実ではないのよね?」
「たしかに現実ではない、とも言えますが……」
「なに?」
「果たして、本当に空想なのでしょうか?」
ワタリの声色が変わる。空気が重くなった。
「どういうこと?」
「先ほども言いましたが、ここは現実と空想をつなぐ図書館。人が夢を見る、ということはそれに憧れや執着、希望、可能性を見出しているからともいえる。では、果たしてそれは空想なのでしょうか? あなた方人間は自分に都合の悪いことは記憶から消そうとする。だからこそ、ここが生まれたのだと私は考えているのです。だとするならば、夢とは一種の現実と表現することができる」
「屁理屈ね。私が聞きたいことはそんなことではなくて……」
あれ? なにかがおかしい。
自分の中で何かが腑に落ちないでいる。
さっきから私は何を言っているんだ?
なぜ、目の前の人間の言葉を話す龍を疑問に思わずに会話をしているんだ?
どうして私は、疑問を抱いていないのか……
不安が恐怖に変わろうとしている。身震いをして、硬い唾を飲み込んだ。
言葉がつまる。
次の言葉が出てこない。
私のその様子を見ると、ワタリはにやりと笑みを浮かべて私に近づいてきた。
「ほう、違和感を覚えましたか……どうやらあなたは賢いようだ。この図書館はあなたの脳に適応することを強制しているのです。だからこそ、ここに疑問を抱かなくなる。本来であれば、何もせずとも自然に中和するんですがね……面白い。不思議な方だ……では、私から提案です」
「提案?」
「ここの管理人になりませんか?」
「管理人?」
「はい。見た通り、ここには誰もいません。故にこの図書館の管理が一切行われていないのです。本棚にも限界があります。古い記録は日を増すごとに消滅しているのです。本来であれば誰かが管理人としてここを担当するのですが、訪れた方は全員適応され、中和されてしまうので管理人にはなれないのです。そこであなたです。あなたであれば適応はされますが中和はされない。管理人としての素質があるのです」
べらべらの好き勝手に話す目の前の龍に苛立ちを覚える。ガムの味はもうわからない。今にも吐き出したい気分だ。
先から話している、適応と中和。一体なんのことだろうか。
適応とはおそらく疑問を抱かないということだろう。普通に生きていて呼吸をしていること、自分が立っている空間や世界に疑問を抱かないのと同じ感覚を強制することを指すはずだ。
だが、中和とはなんだろうか。
話の流れから考えるに、適応の後で中和が行われる。
ここに来た人は皆中和してしまう。ワタリはたしかにそう話した。
中和とは化学における、酸性とアルカリ性の水溶液を混ぜることで、どちらの性質も持たない中性にする化学反応のことだ。その他にも性格や感情が偏らないで穏やかである、という意味や性質の異なるものが互いに融和してそれぞれの性質を失うことといった言葉の意味もある。
考えられるのは後者だ。
だが具体的なイメージが持てない。
「一つ聞かせて?」
「なんでしょう?」
「私は、死んだの?」
ワタリは口を閉じ、目を閉じる。
何かを考えるように腕を組み、数十秒経ってから口を開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます