水中図書館ローズの逆夢
Youg
1 変化
水が弾ける音がした。
たった一滴の雫が水源から名残惜しそうに離れて落ちて、新たな水源に染まっていく。そんな悲しみのような、喜びのような、淡い感情が私を襲った。
首を横に振り視線を動かす。私の横で携帯を触る男性、そしてその後ろで小型の扇風機を手に持ち人差し指を何度もそれに叩くサングラスをかけた女性が目に入る。
気のせいか……
人混みの流れに身を任せていた私はポケットに入っていた黒い包みのガムを取り出し、それを一つ口の中に放り投げる。平たいガムがなかなか口の中で丸くなってくれないことに苛立ちを覚えた。
ふと立ち止まって、曇天の空を見上げる。
今にも泣きだしそうな表情の都会の空は、まだ涙を知らないこのアスファルトを鋭いまなざしで睨んでいた。
私は今、人生の好景気にいる。
5年務めた会社が上場し、給料が今まででは考えられないほど上がった。それまでは求人でも倍率が低かった会社が今では13倍となっているそうだ。
3年続けていた趣味の音楽活動で、私の作った歌がSNSで切り取られるようになり、再生回数が100万回を超えた。自分で歌っているというわけではない。ボーカロイドを使って作った歌ではあるが、リズムと歌詞がいいと評価を受けている。
2年付き合っていた医者と結婚した。大学4年生の時に友人の紹介で知り合った男性だったが、あくまでも友達でいる期間が長かった。私が彼を異性と認識した頃には、彼はもう諦めようとしていたらしい。それはそれでよかったのかもしれないが、今考えると彼は私の人生に必要不可欠なピースなのである。
そしてつい1週間前。私は母親になることがわかった。今でも自分のお腹の中に生命が誕生しているなんて信じられない。だが、間違いなくここにいる。私の体も心も少しずつ変化しているようだ。
私は小さい頃から物怖じしないせず、無駄な正義感を持った少女だったそうだ。小学校2年生の時には、大雨で増水し、流れのはやい濁った川にトカゲが落ちてしまい、流されてしまったのを見た私は、その川に飛び込んでトカゲを助けたそうだ。そんな話を母から聞かされた時は自分のことが心底嫌いになった。
今のこの生活を幸せと呼ぶのだと私は思っている。
電線に止まっていたカラスが2匹、勢いよく空に羽ばたいた。カーッ、カーッと鳴き声を上げ、どこかへ向かって羽を広げる。それが合図のように、道に置かれたお店の幟旗が勢いよく風に吹かれて揺れた。
もしかすると、雨が降るかもしれない。
嫌な気配を感じたその直後、頬に何かが当たる感触があった。手で触れてみるとそれは水だった。一つ、また一つとそれは休むことなく落ちてくる。アスファルトに丸い形の黒い跡が増えていく。徐々に薄い灰色が染められている。
早く、帰らないと……
人の流れが速くなっていく。
一人また一人とカバンから折り畳み式の傘を取り出し、広げていく。
目の前が傘で埋め尽くされ、なかなか先が見えない。
私は身長が低い。女性の中でも低いとされる枠に入るくらいに低い。だからこそ傘を差されてしまっては迷惑なのだ。
数分歩いた。
この身長のおかげで私は傘を差さずに済んでいる。
今は私も人の流れも止まっている。人を一人挟んで私の目の前には交差点が広がっている。ここは車通りも非常に多い。そのため信号機もプログラミングされている時間が長いのだ。
ガムも味がしなくなってきた。
信号機が黄色に変わり、そろそろ歩き出せると思ったその時、私は後ろから背中を誰かに押された。突然のことでバランスを崩し、私は交差点に出てしまう。歩道から飛び出た私を前に立っていた男性は驚いた表情で見ていた。飛び出たとしても信号は赤になろうとしている。このタイミングで走ってくる車はないだろう。私はそう思っていた。
プーッ!
大きなクラクションが耳に入る。
顔を横に向けると、そこには大型トラックの大きな顔とライトが私に迫ってきていた。
このままでは轢かれてしまう。
そう思い、体をねじろうとする。だが体が動かない。足はまだ次の足を出せずにいる。手が震えた。視界がぼやける。
何も反応することができないまま、私はトラックに轢かれ、お腹の子供と一緒に死んだ。
そう、死んだはずだった。
だが私は今、生きている。呼吸をしている。脈がある。
見たことのない空間に私はただ一人立っている。まるで図書館のように大量の本がずらりと並び、梯子のある、ゲームの中の図書館のような空間だった。そしてここは妙に視界が暗く、そして青みを帯びている。手を伸ばして空間に触れようにもどこか体が重い。
あの時、トラックに轢かれそうになった時、私は何かに足首を掴まれ、アスファルトがぽっかりと穴が開いた地面かのようにそこへ引きずり込まれた。一瞬のことで私は状況の整理ができずにいる。
そうか、私は引きずり込まれたんだ。
そう思い、天井を見上げる。
そこで私は目を見張り、今自分が見ている光景に息を漏らした。
さっきまで私がいた交差点がそこにあった。急停止をしたトラック、その運転手が血相を変えて降りてくる。私が轢かれたのを見た男性も私に駆け寄ろうとしている。もちろん、そこに私はいない。二人が何かを話している。おそらくは私のことであろう。
だがこれは一体、どういうことなのだろうか。
私はトラックに轢かれることなくここにいる。
信号はとうに青に変わり、人の流れは交差点に侵入を始めた。
私が見たものはそれだけではない。
彼らが歩いている地面が私からは揺らいでいるように見えた。地震のような大きく激しい揺れではなく、もっと小さく細かく、緩やかな、まるで水族館の巨大な水槽を見上げた時に見える水の揺らめきのような、そんな光景を私は見た。
「ここは一体……」
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