第17話 柊木ミルカと柊木ハルカ
私は一人で第六地区を駆け抜けて、第五地区にある病院へとやってきた。
ハルカがいる病室の扉の前に立つと、私は
大丈夫。大丈夫。大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、私は汗まみれの手で扉の取っ手を
扉を開け放った瞬間、ベッドの上に座るハルカと目が合った。ハルカは不快そうに眉を
「なんで、また来たの。
「ハルちゃんに会って話がしたくて」
「話すことなんて何もない。目障り、不愉快」
ハルカは少ない言葉で私を罵倒すると、ベッドに寝転んで布団を全身に被ってしまった。私を視界から排除して、ベッドの中の小さな世界に閉じこもってしまう。
私はベッドの上に丸まった妹を見つめながら、その場を動かなかった。
「いつまでいる気なの。早く出て行って」
「出て行く気はないよ。私は此処にいる」
「は? なんで」
「そう決めたから」
もう、逃げないと。
「意味分かんない。とにかく出て行って。いられると気が散って眠れないから」
「嫌だ」
「出てってば!」
「嫌。何度言われても、私は出て行かないよ。罵倒されても出て行かないし、物を投げられても出て行かない」
でも、今の私にはそんなの通用しない。
「どうすれば出て行ってくれるの」
「どんなことがあっても出て行かないよ」
「そんなの
「違うよ」
「……久しぶりに来たと思ったら、なんなの。今日はなんでそんなにしつこいわけ」
「ハルちゃんに言いたいこととか訊きたいことがいっぱいあるから」
「私はない。アンタなんかと話したくなんか、ない」
「聞いてくれるだけでいいから」
「聞くのも嫌!」
「じゃあ無理矢理聞かせるね」
私が笑顔でそう言うと、ハルカは口をもごもごと動かしながらベッドのシーツを両手で叩いた。布団にくるまって寝返りを打ち、私から背を向けてしまう。
「まず、ハルちゃんに謝りたいことがあるの」
私は無視を決め込む妹の耳に聞こえるよう、大きな声で話し始めた。声が震えないよう意識しながら、出来るだけ自然ぽく振る舞う。
「此処に来る前、私ずっとうじうじしてたんだ。ハルちゃんに拒絶されるのが嫌で、逃げてた。病室に通ってた時も、ハルちゃんを恐れてすぐに逃げ出してた。ハルちゃんがそんな姿になってることが受け入れられなくて、ハルちゃんに拒絶されるのが嫌で。ずっと、自分のことしか考えてなかったんだ。ハルちゃんのこと、何も考えてなかった」
私は深々と頭を下げて、情けない自分を
「情けないことしてた。それでもしハルちゃんを傷付けたとしたら、本当にごめんなさい」
「……じゃあ、なんで来たの」
私の謝罪から
「傷付けたと思ってるなら、来ないでよ。なんで懲りずに来るわけ」
「その方がいいと思ったの。絶対に、後悔したくないから」
「なにそれ。意味分かんない」
「私がこうして会いに行くことが、私にとってもハルちゃんにとっても、後悔しないことだと思ったの」
「私は来ないでって言ってるじゃん。どうして真反対なことするわけ」
「でも、それがハルちゃんの本音かどうか分かんないから」
「本人が言ってるんだからそうに決まってるじゃん! これ以上の証拠がどこにあるわけ。結局自分勝手なだけなんじゃないの」
「うん、まあ、そうだね。ハルちゃんの言う通り、自分本意で動いてるだけかもしれない。でもそれは関係ないことだよ。私がハルちゃんから逃げたいと思う気持ちも、ハルちゃんが私に会いたくないと思う気持ちも。そんなの抜きにして、私はハルちゃんに会いに来るべきなんだ」
「だからなんで!」
「家族だから」
私は顔を上げて、真っ直ぐな目で布団に包まるハルカを見つめた。今の私に、恐怖や緊張はない。おかげで穏やかな声で、一番言いたいことを告げられた。
「私はハルちゃんの家族で、お姉ちゃんだから。家族は苦しい時も悲しい時も嬉しい時も、どんな時だって一緒にいなきゃいけない。妹のハルちゃんがずっと病室にいるなら、私はお姉ちゃんとして病室にずっといる。妹をひとりぼっちになんかさせない」
「そんなの要らない。変な言い掛かりで居座ろうとしないで。
「何を言っても無駄だよ。今のお姉ちゃんは
私は病室の
「私がベッドから動けないからって、何しても大丈夫だとか思ってるでしょ。言っとくけど、この距離なら殴ることくらいならできるから。まだ居座る気なら、力づくで……」
「いいよ、殴っても。それでハルちゃんの気が少しでも晴れるなら、お姉ちゃんは喜んで受け入れるよ。でもそんなんじゃ私は絶対に此処から離れないけどね」
「なんなのほんと、うざい」
ハルカはさらに深く体を布団の中に潜り込むと、私との会話を無理矢理断ち切ってしまった。
再び一人の世界に閉じ籠もってしまったハルカに、私は無理に話しかけようとはしなかった。ただそばにいて、じっと見守ることに努める。そうしているだけで、時間はあっという間に過ぎていった。
いつも騒がしい第六地区に居るから、この静けさが心地良く思える。
「……なんでそんなに、しつこいの」
椅子に座るだけで何もしない私に向かって、ハルカがまた声をあげた。未だ布団に隠れたままで、こっちを見てくれはしない。
「なんで、出て行ってくれないの……。此処に居ないでよ。お願いだから、私に会いに来ないで……っ」
切実そうなハルカの声に、私は
答えたらきっと、ハルカは怒るだろうから。
その代わり布団に隠れたハルカの頭に触れて、
「何するの、やめて……」
私に頭を撫でられたハルカが困惑した声をあげる。
昔はよく、泣き喚くハルカをこうして
そんな懐かしい記憶を思い出しながら、私はハルカの頭を撫で続けた。ハルカも同じことを思い出してくれたらいいな、なんて願いながら。
「うざいっ!」
ハルカが布団から腕を出して、頭を撫でる私の手を払い
ハルカが腕を布団の中に引っ込めると、私は再び布団の上からハルカの頭を撫でた。
ハルカが私の手を払い除ける。私がハルカの頭を撫でる。また、ハルカが私の手を払い除ける。私が
そんなやり取りを何度か繰り返しているうちに、やがてハルカは私の手を払い除けようとしなくなった。
大人しくなったのを好機と見て、私は思う存分ハルカの頭を撫で続けた。
「なんで……」
無抵抗に撫でられ続けるハルカが、か細い声でぼやいた。
「なんでこんなことしてくるの……。だから、会いたくなんかなかったのに。嫌だった、のに。こんなことされたら私、私……」
「……ハルちゃん?」
布団に隠れたハルカの体が小刻みに揺れ動いているのを見て、私は撫でる手を止めた。
布団の中から啜り泣く声が聞こえてきて、ハルカは泣くのを必死に我慢しようとして体を震わせていた。
「は、ハルちゃん、大丈夫? そんなに私に撫でられるの嫌だったかな。ごめんね、でもお姉ちゃんこういうやり方しか知らなくて。ど、どうしよう」
ハルカを泣かせてしまった私は
その間も、ハルカは泣き続けていた。私はどうすればいいか分からず、結局布団越しにハルカの頭を撫でることしかできなかった。
不器用で馬鹿だから、
私が頭を撫でる度に、ハルカの泣き声は大きくなっていった。とうとう我慢の限界を迎えたのかハルカは布団を取り払うと、ベッドから上半身を起き上がらせて私を睨んだ。
その目は真っ赤に充血していて、大量の涙が溢れ出て
「お姉ちゃんの
ハルカが
私は痛くもなんともないその攻撃を受け入れながら、ベッドから動けないハルカの体にゆっくりと迫った。慰める方法は頭を撫でることだけじゃない。もう一つだけやり方があるのを思い出したのだ。
私はハルカの体をぎゅっと抱き締めた。ハルカの小さな背中に手を回して、決して離さないよう繋ぎ止める。
「離して!」
私の背中を、ハルカが両手でぽかぽかと打ちつけてくる。私は後ろから、ハルカの乱れた髪を撫でた。
「なんで離してくれないの」
「家族だからだよ」
「だからそれ、意味分かんないよ……。お姉ちゃんの、ばかぁ」
「うん、馬鹿だね私。ごめんね」
「ばかばかばかぁ……。なんで、言うこと聞いてくれないの」
「ごめん。本当にごめん」
「お姉ちゃんのせいだよ。お姉ちゃんが会いに来たから、せっかく覚悟できてたのに。死ぬ準備、できてたのに。全部台無し」
「……そっか」
ハルカが私の背中を殴るのをやめて、両手の力を抜いて
「会えるなんて思ってなかった。来てくれた時、驚いた。奇跡だと思った。嬉しかった。でもすぐに、怖くなった。なんでここに居るのって。お姉ちゃんまで、エボルシックに……って」
「……そうだったんだね」
「嘘ついてごめん、なさい。会いたくなかったなんて、嘘。本当は会えて凄く嬉しかった。ごめんなさい。ごめんなさいっ」
「ううん。私こそ、ごめんね」
「嫌いって言ってごめんなさい。本当は大好き。大好きなんだよ、お姉ちゃん」
「うん、私も大好き」
「花瓶投げてごめんなさい。ひどいこといっぱい言ってごめんなさい。全部、嘘だから」
「分かってるよ。ちゃんと」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
「うん、うん」
ハルカが私の背中の服を強く引っ張って、私の肩に顔をうずめる。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん……っ」
「うん、お姉ちゃんだよ」
「お姉ちゃん、どこにも行かないで。もういなくならないで」
「大丈夫、行かないよ。そばにいるから」
「死にたくない。死にたくないよぉ……」
「……うん、うん」
「生きていたいよお」
「……」
「お姉ちゃんとずっと、一緒にいたいよお……」
「ずっと一緒にいるよ。最後まで」
私が耳元でそう
だって私は、ハルカのお姉ちゃんだから。妹が辛い時に、泣いてなんかいられない。私はハルちゃんが生きている最後の一秒まで、笑って過ごすんだ。
……ああもしかして、収容所のみんなもこんな気持ちだったのかな。
なんて思いながら、私はハルカの小さな体を抱き締め続けた。
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