第15話 柊木ミルカとミルフィーノ・コーデリオン




 ズシリ。ズシリ。ズシリ。異形化の際に起こる脇腹の痛みを音で表現すると、そんな感じになる。


 私は今、悪臭広がる屋根のないアパートの中でその激痛に耐えている。以前私が一日だけ過ごしたことのある、バケモノと化した隣人によって破壊されたアパートでだ。


 アパートの中には、私以外誰もいない。


 私は疾滅統括征異団しつめつとうかつせいいだん第六部隊のみんなに何も言わず基地を出て、一人になれそうな空き家を探して此処を見つけた。


 要するに、家出だ。いや、居候いそうろうの身だからそれは違うか。


 ともかく私は一人になりたくて、こうして壊れたアパートの中で過ごしている。入居者ゼロ。家賃無料の事故物件だから、勝手に住み着いても問題はない。


 私は激痛で身動きが取れず、アパートの一階を覆う瓦礫がれきの上にうずくまっていた。ヒナツキさんの薬を切らしているから、ひたすら痛みに耐えるしかない。


 異形化の痛みが引いていくと、私は仰向けになって空の見えない収容所の天井を見上げた。深く息をすると埃が体の中に入ってきて、咳き込んでしまう。


 喉も痛い。ゴミや血の臭いで鼻はイカれてくるし、床は瓦礫がれきの山で寝転んでいると体の節々ふしぶしが痛くなる最悪の居心地だ。


 それでも私は、此処にいる。一人で静かな場所に居たかったからだ。


 いつわりのにぎやかな声は聞こえてこないし、取り繕った笑顔も見なくて済む。誰かを殺しても平気な顔をしていられる異常者も、いつ死ぬかわからない妹も、此処にはいない。


 一人って、なんて気楽なんだろう。もうずっとこのまま一人で過ごしながら、野垂れ死ぬのも悪くないかも。とかそんなつまらないことを考えていると、近くから物音がした。


 私以外に誰か来た? こんなくさった場所にやってくるなんてどんな物好きなんだと、自分のことをたなに上げて思いながら、私は瓦礫がれきの山から起き上がって物音のする方向を見やった。


 現れたのは、私にとってまったく予想外な人物だった。


 収容所内でエボルシッカーズを監視している管理人。そのうちの一人であるミルフィーノが、アパートにやってきていた。


 今日はいつもの黒スーツじゃなく、スカート丈のワンピースと随分ずいぶん可愛らしい服装をしていた。私服だろうか。スーツ以外のミルフィーノの服装を初めて見た私は、それだけで驚いてしまった。


 ミルフィーノは私の存在に気付いた瞬間、足を止めて怪訝けげんそうに眉をひそめた。


「こんにちは、管理人さん」


 私は平常心を装って、ミルフィーノに挨拶した。


「私を処分しにでもきたんですか。まだ仕事を見つけてないから」


「違いますよ。アナタと此処で会ったのは偶然です」


「じゃあどうしてこんなところに」


「それはこっちの台詞せりふです。アナタこそどうしてこんなところにいるんですか」


「私は、一人になりたくて。管理人さんは?」


「……私も、似たようなものです」


 ミルフィーノは二の腕をもう片方の手でつかみながら、私から目を逸らして言った。今日のミルフィーノは、いつもより歯切れが悪い。


「管理人さん、今日はスーツじゃないんですね」


「えぇ、まあ。私にはもう、必要ないので」


「? どうしてですか」


「……今日は、非番なんです」


「そうなんですか。休日にこんなところに来るだなんて、変ですね」


「アナタがそれを言いますか」


「あはは。確かにそうですね。あ、その私服、可愛いですね。ボロ屋のアパートには全然似つかわしくないですけど」


「……今日はまた|随分《ずいぶん)と減らず口が多いようですね」


 ミルフィーノは鬱陶うっとうしそうに溜息ためいきを吐くと、アパートから去ろうとする。


 私は「待ってください」とミルフィーノを呼び止めて、座っている瓦礫がれきの山をぽんぽんと手で叩いた。


「あの、嫌だったら断ってくれていいんですけど。良かったら少しだけ、話しませんか」


「一人になりたかったんじゃないんですか」


「管理人さんは別です。駄目、ですか?」


「はぁ。アナタは本当に、変ですね」


 ミルフィーノは面倒臭めんどうくさそうにしながらも、瓦礫がれきの山を登って私の隣に座ってくれた。


 まさか本当に承諾しょうだくしてくれるとは思わなくて、誘った私自身が驚いてしまった。今日のミルフィーノはなんだかおかしい。


「あの、本当に私を処分場しなくていいんですか。私規則違反者ですけど」


「またですか。どうしてそんなことをわざわざいてくるんです?」


「なんだか、気になって」


 苦笑いを浮かべる私に、ミルフィーノはいぶかるようにジト目でにらんできた。


「まさかそのために呼び止めわけじゃありませんよね」


「そんなことはないです」


「……そうですか」


 ミルフィーノは素っ気なく呟くと、睨むのをやめて開け放たれたアパートの天井を仰いだ。


「今日の私は非番なので、仕事はしませんよ」


「意外と緩いんですね」


「緩くはありませんよ。単純にアナタを殺す必要がないだけです」


「殺す殺さないって、さっきからなんだか物騒な話してますね、私達」


「此処はそういう場所ですからね。第一、アナタが先にその話を始めたんでしょう」


「そうでしたね……。此処はそういう場所なんですよね」


「……」


「前に管理人さんが言ってたこと、私にも分かっちゃいました」


 私は膝を折って体を丸めると、瓦礫がれきに埋もれた床を見下ろした。天井を仰いでいたミルフィーノも同様に、瓦礫がれき下を見つめる。


「いや、ずっと感じてはいたんです。誰かが死んでも笑っていられる収容所のみんなも、誰かを殺しても平気でいられるミナト達も、おかしいって。でもみんなと過ごしていくうちに慣れていって、段々と違和感なんて感じなくなっていました。それが普通なんじゃないかって、思えるくらい。でも、違った。知り合いが死んで、大好きな子が死ぬと分かって私は改めて気付いちゃったんです。やっぱりみんなが異常だって、私はきっとそんなふうになれないんだろうなって。そう思った瞬間、此処で生きてける自信が持てなくなって、なんで生きてるのかも分からなくなりました。どうせ病気で死ぬのに、笑って過ごせるみんなが怖くて仕方がなくなったんです」


 気が付くと、両目から涙があふれ出ていた。最近すぐ泣いてしまっている気がする。こんなに私って、泣き虫だったかな。


 私は鼻をすすりながら、情けなくぼやく。


「私はみんなみたいに、強く生きれません。みんなみたいに異常にもなれません。私はもう、生きたくありません」


「だから、どうしたいんですか」


 そう問いかけられて、私は口をつぐんでしまった。


「わかりません。分からないから、こんな話を管理人さんに聞いて欲しかったのかも知れません」


「どうして私に?」


「こんなこと第六部隊のみんなには言えないですよ。本人に直接貴方は異常だなんて言えるわけないじゃないですか。でも、管理人さんは違う。管理人さんに話したら、何か答えてくれるかなって」


 曖昧あいまいに答えると、ミルフィーノはしかめ面になって私のことを睨んできた。やっぱりこの人の目はいつ見ても怖い。


「以前も言いましたが、私からすれば彼等もアナタも異常に見えますよ」


 ミルフィーノが再び天井を仰ぐ。私も吊られて見上げてみる。特に意味はないけど、彼女と同じ動作を繰り返してしまう。


「エボルシックを発症して尚生きようとして、こんな場所で過ごしていられる時点で、既に異常です。私はそんな風に、生きれません……」


 ミルフィーノの声は、震えていた。体も同様に膝を抱えた両腕が小刻みに震えていた。その震えは銃で規則違反者を撃ち殺していた時よりも酷く、何かに怯えているようだった。


 私は心配になって、ミルフィーノの顔色を窺う。


 ミルフィーノは青ざめていて、今にも倒れそうな危ない様子だった。


「大丈夫ですか?」


「……大丈夫じゃないとしたら、どうしますか」


「え? えっと、私にできることがあるなら、言ってください。助けます」


「……馬鹿なんですか?」


「えぇ……」


 急に罵倒ばとうされた私が眉を下げて落ち込んでいると、ミルフィーノはぴたりと震えを止めて、私に向き直った。


「アナタは強いですよ」


 今度は逆に褒められてしまい、私は情緒がおかしくなりそうだった。


 思えばこれが、私が初めてミルフィーノに褒められた瞬間だった。いつも罵倒ばかりだったから、ちょっぴり新鮮だった。


「私なんかより、余程強いです。だから理解できなくて、意味不明で変だと思うんです」


「でも、管理人さんの方が強いですよね。すごく運動神経良いみたいですし」


「そういう意味じゃないんですが」


「私は強くなんかないですよ。今だって何もできなくて、うじうじしているだけです」


「でもアナタは生きてるじゃないですか。まだ死んでない」


 ミルフィーノは力強い声で私に言った。


「いつ死んでもおかしくない状況下では、異常な思考を持たないと生き残れません。ある者は偽りの笑みで誤魔化し、ある者は誰かを殺しても平気でいられる。イカれた世界では、イカれた者だけが生き残る。まあどうせ直ぐ死ぬ運命なのに、それでも生きようとする彼等はイカれていて、異常なんです。アナタはまだその狭間にいるだけ。生きているだけで、凄いことなんです」


「……あの、今日はどうしてそんなに褒めてくれるんですか?」


 訊ねると、ミルフィーノはムッと唇を尖らせた。今日のミルフィーノは表情変化が激しい。


「勘違いしないでください。別に褒めたわけじゃありません。事実を述べただけです。それに、自分にはできないことを凄いと思うのは当然でしょう」


「そ、そうですよね、ごめんなさい」


「私はずっと収容所に居ますから、嫌というほど彼等を見てきてるんです。私は彼等みたいに笑えたり、誰かを殺しても平気でなんかいられないので、それをやってのける彼等が凄いと思う反面、異常で恐ろしく見えるんです」


 そこでミルフィーノは言葉を打ち切り、苦しそうに咳き込みだした。ほこり蔓延まんえんしているせいかもしれない。私もさっきから喉が痛いし。


「私達コーデリオン家は全員、収容所を管理してエボルシックを秘匿する仕事に就きます。その為に幼い頃から、過酷な訓練を受けさせられてきました」


 咳が止まったミルフィーノはまだ少し苦しそうに顔を歪めながらも、身の上話を始めた。私は黙ってその話を聞くことにした。


「物心ついた時には銃やナイフの扱いが身に付いていました。バケモノ相手でも戦えるよう仕込まれて、その他の時間は全て勉学に充てられました。私には昔から自由がなかったんです。知識本以外の娯楽ごらくを与えられたことはありませんし、遊ぶ時間なんて一秒もなかった。管理人として生きることが私の役割であって、その他の余計なものは一切必要じゃないからです。生まれた時から私の人生は決まっていて、その通りに生きるしかない。私はずっと、その不自由さが嫌でした」


 ミルフィーノの生い立ちは一般の家庭環境から明らかに逸脱いつだつしていた。


 一般家庭で育った私には、それがどんな日々だったのか想像することすら難しい。


「私、外の世界のことってあまり知らないんです。知識としては知っていますが、実際に見たことは数回しかありません」


「そんな……」


「初めて外の世界を見に行った時、私は私自身が不自由であることを知りました。私と同じ年齢くらいの女の子達のキラキラした姿を見て、羨ましいと思ってしまったんです。私もあんな風に自由に生きたいと、それからずっと頭の中で考えるようになりました。どうして私はコーデリオン家に生まれたんだろうと、この血筋を恨んだこともありました。どんなに嘆こうが変わらないというのに、虚しいですよね」


 同意を求められて、私は反応に困った。易々と肯定できるほど、私は彼女の人生より自由のない日々を送ったことがないからだ。


「だからこそ、理解できないんです。彼等のように普通の生活を送っていた者達が、突然その生活を奪われたというのに笑っていられるのが。自由があったのにそれを奪われたことがどれだけの苦痛か、自由がなかった私でもそれが計り知れないものであることくらいは分かります。いつバケモノになるか分からない病気になって、自由を奪われてまでこんな場所に生きる意味が、私には理解できません」


「……」


「私は弱いんです。彼等みたいに生に執着しゅうちゃくすることもできませんし、誰かを殺して平気でいられる精神力もありません。管理人として、向いてなかったんです」


 ミルフィーノは片手を宙に掲げて、その手のひらと見つめ合った。


「この手で誰かを撃ち殺す度、震えが止まらなくなるんです。何度撃っても撃っても慣れなくて、血だらけで動かなくなった死体を見る度吐き気がします。毎日のように撃ち殺した死体が出てくる夢を見て、いつしか眠るのが怖くなりました。私はこの生き地獄から、ずっと逃げ出したかった……。ずっと、ずっと……。普通の生活を送りたかった。普通に学校に通って、みんなと勉強して、遊んで。普通の家族に囲まれて、誕生日にはプレゼントを貰って。幸せに、生きたかった……」


 震える両手で顔をおおい隠しながら、ミルフィーノは切実に訴えた。私にではなく、もっと大きな、理不尽な世の中に。


「すみません。取り乱しました」


 ミルフィーノは震える両手を私から見えないよう後ろに回すと、視線を瓦礫下がれきしたに向けながら冷静さを取り戻していった。


 けれどその表情は暗いままで、必死にそれを隠しているようにしか見えない。


「あの、どうして、そんな話を私にしてくれたんですか」


 ずっと黙っていた私は、出来るだけミルフィーノの顔を見ないよう気遣いながらも、おずおずと尋ねてみた。


 ミルフィーノは顔をうつむかせたまま、躊躇ためらいがちに答えてくれる。


「……よく、分かりません。なんとなく、アナタになら話してもいいと思ったんです」


「そうなん、ですか」


「はい」


 照れ臭くなった私は、ほおいてむずがゆさを誤魔化した。そういえば、キクリにも同じことを言われた気がする。私ってそんなに話しやすい相手なんだろうか。


「なんだか今日の管理人さんは物腰が優しくて、変ですね」


「アナタに変と言われたくはありませんよ……」


「あはは。そうですよね。でも正直嬉しかったです。色んなことを話してくれて。こんなふうに長くお話ができるなんて、思ってもみなかったんで」


「……私もです」


「管理人さんって、全員管理人さんの親族だったんですね」


「遠縁が多いですけど、血の繋がりは一応あります」


「大家族なんですね」


「家族と呼べるほど、関係性は深くないですけどね。ただの仕事仲間です」


「仲良い家族、いなかったんですか」


「……一人だけ、いました。あっちはどう思っているか分かりませんが」


「親ですか?」


「姉です。二つ上の。名前はシャルロッテ・コーデリオン」


「あ、確か貨物車にいた……」


 ゴシックな黒いドレスを着たあの美少女だろう。言われてみれば目の形とか顔の輪郭りんかくとかミルフィーノと似ている気がする。


「シャル姉様ねえさまは凄い人です。まだ若いのに収容所統括指揮を任されてるんです。強くて凛々りりしくてどんなことがあってもブレない、自慢じまんの姉です」


「尊敬してるんですね」


「はい、してます」


 ミルフィーノは力強く首肯しゅこうすると、着ている白いワンピースの布を摘み上げた。


「このワンピース、姉様から貰ったものなんです。お下がりで、姉様からしたら要らないものを捨てる感覚だったんでしょうけど、私にとっては大切なものなんです。姉様から頂いた唯一の、宝物なので」


 白のワンピースはシミとしわ一つなく、ミルフィーノの華奢な体に収まっている。とてもお下がりで貰ったとは思えないくらい綺麗で、ミルフィーノに似合っている。


「大事にしてるんですね。素敵です」


 私が褒めると、ミルフィーノは少しだけ頰を赤く染めて照れ臭そうに顔を逸らした。可愛い。


「姉様とは小さい頃三度だけ、一緒に風呂に入ったり、一緒のベッドに寝たりしました。私が家族みたいなことをできたのは姉様だけで、そのくらいしかしたことがありませんでした。実の家族なのに段々と疎遠になって、ちゃんとした会話もしなくなって、ただの仕事仲間になりました。姉様は多分、私と風呂で洗い合ったことも一緒にベッドの中で温め合ったことも覚えてないでしょう。私だけ覚えていて、私だけ、心残りで……もう取り返しがつかないくらい……ずっと」 

「後悔、してるんですか?」


 ミルフィーノは黙って首肯しゅこうする。


「もっと、甘えれば良かった。もっと素直に、姉様に話しかければ良かった。もっと、家族らしいこと、したかった……」


「まだ遅くないですよ。今からでも」


「もう遅いです」


「でも」


「遅いんですっ! もう無理なんです! 何もかもっ」


 ミルフィーノが悲痛に満ちた声で叫んだ。


 私達以外誰もいない廃墟はいきょではその声がよく響いて、その悲痛さが私の耳を通り越して胸の内側にまで突き刺さった。


「私の人生は汚れてるんです。あるのは血塗れた手だけ。誰かを監視して処理してするだけの、腐った人生なんです。私には、普通の人生なんて送れない。家族も、学校も、友達も……私には、ない……」


「ありますよ」


「ないですよ」


「あります。私がそうさせます」


「は? 何を言って……」


「私が友達になります。いや、なってください」


 私はミルフィーノの目前に手を差し伸べて、頭を下げた。


  一喜一憂いっきいちゆう。まるで意中の相手に告白するみたいに全身を強張らせながら、私は言った。


「私は管理人さんと友達になりたいです。管理人だとかバケモノだとか関係ありませんし、どうでもいいです。というか今日非番なんですよね。だったら、問題ないですよね。非番の時はこんなふうにお喋りしたり、遊んだりしましょう。だから、その、お願いします」


 早口で、途中で何度か噛みそうになりながらなんとか言い終えると、私は差し伸べた手を更に強くミルフィーノの前に突き出した。ミルフィーノは私の手を取ろうとせず、しばらく黙っていた。


「アナタは、馬鹿なんですか」


「わ、わかりません。でもこれは本心です。管理人さんと、友達になりたいです」


「……アナタはやっぱり、どうしようもなく変なです。異常です」


「うぅ、ごめんなさい。私なんかと友達になっても嬉しくないですよね……急に変なこと言ってごめんなさい」


「別に、嬉しくないわけじゃありません……。突然のことで動揺どうようしているというか……だから、とりあえず顔を上げてください」


 その言葉に従って、私が恐る恐る顔を上げてみる。すると目の前に、大粒の涙を両目から垂れ流したミルフィーノが映り込んだ。


「私と、本当に友達になってくれるんですか」


 ミルフィーノが不安気に、私にたずねてくる。私はそれに、思い切りうなずいた。


「なりたいです。いい、ですか?」


「……私で、よければ」


 ミルフィーノはそう言って、差し伸べた私の手を取った。私と手を握り合うと、ミルフィーノは照れ臭そうに頰を赤く染めながら、また涙を流していた。


 その姿を見て、私の目にも涙が流れた。泣き出した私を見たミルフィーノは、困惑こんわく気味に首を傾げた。


「どうして、アナタが泣いているんですか」


「わ、分かんないです。なんだか管理人さんを見てると悲しくて、でも友達になれたのは嬉しくて。多分、両方で」


「アナタは本当に、変ですね。貴方のような人とずっと前から友達で、一緒に学校に行って、遊んで、普通の生活をしていたら。きっと、幸せだったんでしょうね」


 ミルフィーノは私の泣き顔を見ながら微笑ほほえんで、また泣き出した。私もそれにつられて泣いてしまい、わんわんと喚いた。


 二人して手をつないだまま、ほこりまみれの汚い廃墟はいきょで精一杯に泣いた。泣く時間が増えるたびに握り合った手は強く結ばれて、私達の間に暖かいものが生まれていった。


「友達って、何するものなんですか」


 何分か経って泣き止んだミルフィーノが、嗚咽混おえつまじりに私に尋ねてきた。


「何って、さっき言ったみたいに遊んだりとかお喋りしたりとか、じゃないですかね」


「アナタもちゃんと分かってないんですか」


「分かってないというか、友達としての在り方を改めて問われても難しいというか。とにかく気が合えば良いと思いますよ。友達同士」


「アナタのことはあまり理解できないんですが」


「こ、これから合えばいいんですよ。色々話し合って、お互いの知らないとこ言ったりして」


「……」


「そ、そうだ。友達同士なのに敬語って変だと思うんです。だからもっとくだけた感じで話したいというか。敬語、無しにしませんか?」


「いい、ですけど」


「じゃあそうする、ね」


「……うん」


 敬語をやめただけなのに、なんだか恥ずかしくなってもだえてしまう。それはミルフィーノも同じみたいで、泣きらした目の周りと同じくらい顔を真っ赤になっていた。


「あと、愛称あいしょうで呼んでいかな。友達なのに管理人さんって呼び方は変だと思うの」


「友達同士なら、愛称で呼び合うものなの?」


「絶対ってわけじゃないけど、その方が仲良しって感じかなって。ミルフィーノだから、ミルちゃんってどうかな」


「ミル、ちゃん」


「私もミルカだから、ミルちゃんって呼んでほしいな。ミルミル同士。ほら、なんだか絆が深まった感じしない?」


「ミルミル……」


「そう、ミルミル」


「ふふ、変な名前ですね」


 その時、あんなに無愛想だったのが嘘みたいに、ミルフィーノは屈託くったくなく笑った。そのことが自分のことのように嬉しくて、私も笑った。


 やっぱりミルミル同士、気が合うのかもしれない。


「ミルちゃん。あの、他には友達同士でどんなことするの?」


「そうだなあ。せっかくだからミルちゃんも一緒に考えようよ。友達同士ですること」


「うん、分かった」


「やっぱり友達なら一緒に勉強会とかしたいな。お互いの家に行って学校の試験対策したり、お菓子食べたり」


「お菓子食べるの? 勉強じゃなくて」


「休憩は必要だよ。その為にお菓子は必須なの。ミルちゃんは何かしたいことある?」


「一緒に公園に行って、ブランコしたい。あと、大きなショッピングモールに行って色んな服を着せ合ったりしたい」


「うん。うん」


「あと、お泊まり会したり、浴衣着て花火大会とか祭りに行ったり、映画館に行ったり……」


 ミルフィーノは友達同士でしたいことを一度話し出すと、その口が止まらなくなっていった。元から思い描いていたのか何通りもやりたいことが湧き出てきて、私はそれを聞きながらたまに口を挟んでいた。


「こんなこと、できたらよかったな」


 一通りやりたいことを言い終えたミルフィーノは、なかば諦めた様子でそう言った。


「収容所じゃできないことは多いけど、そんなことどうだっていいんだよ。だって大事なのは此処に友達がいることなんだからね。一緒にいれば楽しいことなんで無限に湧いてくるよ」


 私が胸を張って言うと、ミルフィーノは苦笑しながら首を横に振った。


「その気持ちは嬉しい。でもそれはできない。私はもうそんな幸せを受け取れない。受け取っちゃ駄目なんだよ」


「どうして? そんなことないよ」


「ううん、あるよ。それにこんなことはずっと続かない。いつかバケモノになって、全部壊れる」


「それは……」


 私は何か言い返そうとして、何も言えずに口をつぐんだ。そうだ、私はエボルシック発症者なんだ。ミルちゃんとはそんなに長く友達でいられないんだ。そのことをこの時一瞬忘れかけていた私は、一気に現実に引き戻された。


「私はアナタと友達になれただけで嬉しい。ずっと夢だった、友達が出来ただけで、充分。それだけで、私は報われた気がするの。これ以上の幸せは、もういらない。本当に、むくわれた。だからアナタもどうか、短い余生で報われてほしい」


「ミル、ちゃん?」


「家族のこと、大切にしてね。私みたいに逃げないで、ちゃんと向き合ってね」


 ミルフィーノは私の手を握り締めて顔の前に掲げると、目尻をやわらげてほおにエクボを作り、満面の笑みを浮かべた。


「さようなら」


 そう言い残して、ミルフィーノはボロ屋のアパートから姿を消した。私が手を伸ばして「待って」と叫ぶも、ミルフィーノは止まってくれなかった。


「また、会おうね」


 この場からいなくなった友達へ向けて、私は届かぬ言葉を投げかけた。泣きらした目を腕で擦り上げると、私もアパートを後にする。


 とりあえず基地に戻ろう。こんなところで油を売ってないで、これからのことを色々考えなければ。


 町のみんなのこととか、第六部隊のみんなのこと。私自身のこととか、妹のハルカのこととかも。


 そうだ、次にミルフィーノと会った時、どんなお友達らしいことをしようかも今のうちに考えておこう。


 色んな案を考えているうちに、早くもミルフィーノと会うのが楽しみになってしまっていた。


 早くミルフィーノに会いたいと、そう願っていた。


 でもそれは叶わなかった。


 次に私がミルフィーノと出会った時、彼女は死んでいたからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る