008

 次の日、僕はベッドの上で目を覚ました。

 昨日はあの後疲れてすぐに寝てしまったらしい。あまり記憶がない。

 隣を見ると海老介さんがまだ寝ている。化粧を落としていても女にしか見えなかった。

 その中性的を通り越して100%女性的な美貌を見ていると居心地が悪かったので僕は海老介さんを起こさないようにそっと立ち上がる――れなかった。

「うわっ」

 後ろから海老介さんが僕を取り押さえる。

「――どこいくの」

「別にどこもいきませんよ。何してるんですか」

「どこも行かないならここにいてね」

「わかりました。ここにいるから抱きつくのはやめてください」

「冷たいなー。ボクがあっためてあげる」

 後ろから抱きつかれた体勢で抵抗しているとシャンプーの匂いに混じって酒の匂いがした。この人はまだ酔っているのだ。

「キスしよキス」

「しませんよ」

「なんでー?」

「したくないからです」

「ボクがしたいからするんだよ」

「海老介さん、ちょっ、え、マジでやめ」

 細い身体なのに僕より力は強く、両手を封じ込まれてしまう。女にしか見えないこのキス顔も実は男。頭がおかしくなりそうだ。いや、頭がおかしいのは海老介さんだ。間違いない。

 そんなことを考えている間も海老介さんの唇は刻一刻と迫っている。

「ちゅー」

 別に悪くないのでは。別に僕が仕掛けたわけでもない。されたと言えば何も悪くない。むしろしないほうが勿体無いのでは。

 もういいやと諦めようとした瞬間。

「戻ったでーって何しとんの!えび!やめや!」

「――痛っ」

「何襲っとるん?あとなんでヒメももうええわ、みたいな顔しとんの」

「えびちゃん引くわ。ヒメ、飯買ってきたから食おう」

 頬に契美さんのビンタをくらい、泣きそうな顔をしている海老介さん。別に僕に対した被害は何一つないのでなんだか可哀想に思えてくる。これがストックホルム症候群か。それより、契美さんのビンタの音は凄まじかった。

 そう言えば、僕の呼び名はヒメに決まった。自分の名前を好んでないと察した辰巳さんがつけてくれたあだ名、僕はかなり気に入っている。

 食事の前に学校に、体調が悪いので休みます、と辰巳さんの携帯で電話を入れておいた。先生も怪しむことはなくお大事にと電話を切った。今日は金曜日なので明日明後日は何もない。しばらく何も気にせずに生きていけるだろう。

「そう言えばヒメちゃん、両親が死んだ後親権はどうなったの?おばあちゃんとか?」

 ツナマヨおにぎりを開封しながら海老介さんが聞いてきた。

「えっと、なんかお葬式の時に盥回しにされて、なんか揉めてる最中です。今は一人で生活してます。お金は出してもらえてるので」

 あまり思い出したくない。

「ええわけないやろそんなん」

 腹を立てたのか、契美さんがお湯の入った電気ポットをドンとおいた。

「胸糞悪いねんそういうの」

 そう言って少し慌てたようにカップラーメンにお湯を注ぐ。

 三人は三分黙った。

 全員が僕のことを考えているのだと思うと嬉しいような恥ずかしいような変な気分になった。これだけは自意識過剰ではないと確信できた。

「うまいなこれ。やっぱカレーが一番好きやわ」

 沈黙を破ったのはやはり契美さんだった。

 それに続いて二人とも感想を述べる。

「俺はシーフードが一番好き」

「ボクはツナマヨしか食べない」

 契美さんが止めた会話を契美さん自身で再会するのを見て時間を操っているようにも見えた。

 僕は契美さんがお湯を注いでくれたカレー麺を啜った。箸が止まらなくなるほど美味しかった。空腹は最高の調味料だと改めて認識する。

「僕もカレーが一番好きです」

 僕がそう言うと契美さんはえへへと笑う。

「うちのも食べ」

 嬉しかったのか、僕に残りのカレー麺を差し出してきた。断るのもなんか違うと思ったので、ありがとうございますと言って二つとも完食した。

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