第8話

巳之口先輩の後ろをついて走る。一歩、一歩、とにかく足を動かす。

私と同じ考えだったのか、遅れずにやって来た夜慧は寅谷先輩と共に走り、その先を戍亥先輩たちと葵が駆け抜け、最後方を小梅と酉水先輩が走っている。

息が吸えない――グランド大回り四周目で、私の身体が限界を迎えだした。

徐々に巳之口先輩との距離が開いてゆく。

「くそ」と、あらん限りの力を振り絞る。

その結果、私は吐いた。酸っぱいものが口の中に広がってゆく。

「大丈夫?和」

背をさすってくれたのは酉水先輩だった。

「ゆっくり息を吸って吐いて。過呼吸気味だから」

言われるがまま、背を伸ばし、大きく息を吸い、吐き出す。

そうこうしてる間に小梅が寅谷先輩を連れて来た。

「和、大丈夫?」

「とりあえずこの場から離れるぞ」

寅谷先輩は手にしたバケツから水を撒き、私の吐瀉物を足でもみ消す。

「うちの監督不行届だよ。日乃江も和もごめん」

「責任はあたしのもんだから、二人とも気にすることはねえよ。で、具合はどうだ?」

私は巳之口先輩が持ってきたドライアイスを、首筋や脇に当てながら「大丈夫です」と返す。

「桃香は体育館に戻って、戍亥たちがバカやらないようにみてやってくれ」

巳之口先輩は寅谷先輩に「わかった」と返し、私には「ごめんね」と言った。

「あの――すみません」

「吐いたことか、それとも靴のことか。どっちにしろ気にすることじゃねえから。今は、授業受けられる体に戻すことに専念してくれ。部活出たせいで、授業が受けられません、なんて洒落になんねえからよ」

体育館脇の階段の上。寅谷先輩が私の横に座ると大きく伸びをした。

「そろいもそろって急にやる気出して。どうした?ガキ共に当てられたか?」

それもそう、なのだろうが。なぜだろうか、気持ちが落ち着かない「負けた」ことに焦りを感じてるようにも思える。

自分の体なのに今どんな状態なのかわからない。

これが過呼吸のせい、ならいいのだけど――。

私は巡りに巡らせ、ただ一言「すみません」と、ようやく返した。

「ま、いいや。やる気でただけでも偉いよ、あんたらは。あたしなんて、いまだに『阿呆』になれないんだから。朝練なんて出たくない、寝てたい、六時間授業受けた後に運動なんて頭おかしい、と思ってるんだから」

寅谷先輩が手についた砂を払い立ち上がる。

「具合よくなったら報告しなくていいから教室に向かいな」

寅谷先輩は手をヒラヒラと振り体育館へと戻っていった。


四時限目のチャイムが鳴る。四時限目は確か、世界史だ。

白髪交じりで、自然とそうなるのかオールバックの男性教師が入ってきた。

よれた教科書を開く。確か今日から基督教と世界、だったか。

授業がはじまってすぐ、眩暈のようなものを感じた。

頭が重い。眠たいわけじゃないのに、こくりと舟を漕ぐ。

「この頃から、ペスト流行の兆しをみせ――」

ペスト――あの悪病にはこの薬草を煎じて。はっきりとした効果はない、だけど幾分か楽にはなるはず。

知らないことなのに、なぜだか、ありありと情景が浮かんでは消える。

頭が痛い。気持ち悪い。

「――ご。――和」

誰かが私を揺すっている。机を擦る様に顔を向けると「大丈夫?」と夜慧の不安そうな表情が目に映った。

「雨夜、大丈夫か?顔色悪いな。新子、保健室まで連れて行ってやれ」

「はい」と夜慧が私の手を取る。

よたよたと立ち上がり教室を後にした。

「おい、大丈夫か?朝も吐いたらしいじゃん」

夜慧が声を落としながら言う。

私は一歩前へ、足を踏み出すので一杯一杯だった。

薬品の匂いがする。保健室まで随分と歩いた気になる。

「先生、急患」

夜慧がドアを開け声を上げる。

「あら、だいぶ顔色悪いわね」

養護教員の先生が私をベットに座らせ「失礼」と制服を緩め脇に温度計を差す。

ピピ。と体温計が鳴り養護教員の先生が、体温計を払うように振り温度をみる。

「平熱。体調悪くなったのっていつごろから?」

「あぁ、えっと、今の授業中から、です」

答えられない私に代わり夜慧が答える。

「と、ただ、朝練の時に吐いたみたいで」

「そう。持病はないみたいだし疲れ、なのかもね。ほら部活の強制加入がはじまったでしょ?それで慣れないことをするもんだから、手や足を捻っただの、体調が悪くなっただの、いつにも増して多いのよ。ただ、それは自分がどの程度動けるかわかってないだけのこと。私個人としては部活を通して運動することには賛成よ。思春期特有の靄を晴らすのに体を動かす、というのはいいことだから」

養護教員の先生はそう言い切ると「はい」と頭痛薬と水を手渡してきた。

水面に映る顔が幾重にも伸びて縮む。

それは、度々夢に出てくる、あの顔に似ていた。

私が飲み終えるとこの時間――後約三十分程――は寝てなさい、と養護教員の先生が言う。

正直、目をつむりたくなかった。夢をみるのが怖かった。

だから軽く寝返りを打って、壁の染みでも追っていようかと思ったのだが、少しの瞬きから段々と瞼が閉じ仕舞いに寝てしまった。

城だ――。

ゆっくりと開いた目に映るのは、西洋式の城。

中学三年の頃から夢に現れはじめた城は、普段もっと靄がかかったようなのに、今日ははっきりと、手を伸ばせば掴めるような整生さがあった。

一歩踏み出してみた。私の後ろから映画やアニメで聞くような馬車の音が聞こえる。

急に現れた馬車は、私の身体をすり抜け城へと駆けて行った。

私も――という気にはならなかった。夢の中だというのに妙に現実感のある胸騒ぎを感じ、怖くなった。

この先何があるのか知らなくても別に――と言い聞かせ早く目が覚めるようにと曇天を仰ぐ。

私を起こしたのは授業終了のチャイム。

「よく眠れたかしら?」

『よく』は眠れなかったのだが、面倒ごとにしたくなかった私は「はい」と答えた。

養護教員の先生が再び体温計を手に取る。

「変わらず平熱。どうする?授業受けれそう?」

「あ、はい。大丈夫です」

ありがとうございました。と私は保健室を後にした。

昼食か。どうしよう――そんなことを考えながら、教室へと戻る。

夜慧はいなかった。葵たちと一緒に昼食に行ったのだろう。

私は弁当の入った手提げ鞄を手に、ぶらりと教室を出る。

行く当てはなかったが、足は自然と屋上へ向かっていた。

「――久末先輩たちいるかな」

ふと、こないだの酉水先輩の演奏のことを思い出し、屋上へと向かう階段の踊り場で聞き耳を立てる。

あの独特な音は聞こえない。どうやら今日は演奏会はないようだ。

屋上に出た私は大きく息を吸った。

よし。と一番奥にあるベンチに腰掛け、弁当箱を取り出す。


「ごちそうさまでした」と弁当箱をしまい込み空を仰ぐ。

青い――。

そりゃそうだろう、と自問自答し、軽く伸びをする。

「ん?雨夜?」

卯ノ花先輩がこちらに歩み寄ってくる。

「この場所、私もお気に入りなのよね。隣いい?」

「どうぞ」

卯ノ花先輩は隣に腰かけると、手提げ鞄から本を取り出して読みだした。

ブックカバーがかけてあり、何の本なのかはこちらからはわからない。

「――エッセイよ」

卯ノ花先輩は目線を本に向けたまま答えた。

「将来医者になりたくてね。細かく言うと精神系専門の」

卯ノ花先輩はそういうとこちらを見てきた。

「あなた、朝吐いたらしいけど大丈夫?」

「大丈夫です。やっぱり三年生の方にも話は通ってるんですね」

「ネムと渡浪だけ――のハズだったんだけどネムが酷く心配して私に相談してきたのよ」

それで。と卯ノ花先輩が本をしまい込む。

「本当は白を切り積もりだったんだけど、偶然逢えたわけだし、どう?話聞くよ。別に付け焼刃の知識を引け散らかしたいわけでも、医者ごっこしたいわけでもないから無理に言う必要はないんだけどさ。雨夜、どこかつらそうだよ」

つらい。別にあの夢を『つらい』と思ったことはそういえばない。

ただあの夢をみると決まって胸が締め付けられる、というかどこか『悲しい』という気持ちになる。

こういうのは病状とかあるのだろうか?

「あの――」

そこまで言葉がでるが続きが言えない。

「ごめん、私がいけなかった。調子に乗ってた。久末たちには『大丈夫』て伝えておくから」

卯ノ花先輩はそういうと、再び本に目線を落とす。

次はない。二度とない。又とない。そんな思いが沸々と湧き上がる。

「あの、卯ノ花先輩――」

唇が震える。

「私、変な夢をみるんです。中学三年の頃から西洋式の城だったり、その、誰かに向かって石や斧、鍬や南瓜まで投げつけたり。そんな夢を見はじめてから、現実でも時たまに他の人にはみえない黒猫がみえたりして、その――」

「ストップ。ありがとう」

卯ノ花先輩がハンカチを手渡してくる。

私はいつの間にか泣いていた。

「――夢、か」

卯ノ花先輩は一人ぶつくさと、ごちりはじめた。

昼休み終了五分前の予鈴が鳴る。

「雨夜、相談してくれてありがとう。それでね、その『夢』について思い当たることがあるのだけど、ちょっと時間をくれる?」

「はい。あの、なにか病気だったりするんですかね」

「病気ではない、これだけははっきりと言える。なんて、藪医者以下の私が言ってもなんの説得力もないのだけど。ほら、そんな顔してないで行くわよ」

私はどんな顔をしていたのだろうと、卯ノ花先輩の後を追いながら考えた。

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