ドロップ缶

chisyaruma

第1話 ドロップ缶

 僕は一般的に言うような幸せな人生を歩んでこれたのだろうかと過去の記憶をゆっくりと、歩くよりももっと遅くたどるときがある。人並な幸せは送ることができたのかもしれない。もし、これは僕の予想の域を超えることはないだろうけど、自分の人生を伝記として一から記したなら多くの人たちがうらやむかもしれない。だけどそれはあくまで他人の考えや評価に過ぎない。そう、僕は自分でも理解しているつもりではあるけれどもめんどくさくて愚かな人間であることに間違いはないだろう。

 

 僕は今もこうして過去を思い出している。外は雲一つない海のような空が広がっている。蝉も自分の短く細い命を謳歌しようと声を張り上げている。でも僕の心はよどんだ雲が覆いかぶさっているし、蝉の死骸が張り付いている。


 僕はもうかなりの長い道を歩んできた。人並な青春を送り、そして結婚、子宝にも恵まれた。人生の目的を果たしたと思われても仕方がない。でもやはり一つ心残りのことが一抹のよどみとして離れることはない。


 古い埃のかぶったパソコンの前に座り過去に思いを馳せながら僕はこうして文章を書いているわけだが、年々とその記憶は薄くなり曖昧になっていく。本当はあの時の記憶が亡くなっていくことに喜びを覚えるべきなのかもしれないが、心の奥底ではいつまでも確固たる形を保ったまま残り続けることを望んでいるのだろう。

 

 僕は過去の記憶の不確かさというものを認めたくはない。確かであるものとして思い続けたい。だからこうして文章として書き残すことに決めたのである。


 いま、僕の視界の隅には一つのドロップ缶がある。こいつが僕のあの時の記憶を保持していてくれている。緩く閉じられたふたを開けるとあの時の甘いにおいが漂ってくる。僕はそれを嗅いで薄れかかった記憶を鮮明なものに変えるのだ。僕は自ら呪縛を受け入れる。中を覗いてみると残りはもうかなり少なくなっている。あと数粒といったところであろうか。そして僕は一粒それを中から取り出し、鼻の近くに持っていき、香りをかぐ。そして僕はそれを、重く香しい薄桃色のドロップを体の中に入れる。あの時の思い出を忘れない為に。

 

 

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