第46話 盛らず消えぬ青き炎よ

 ハルバラ平原という場所について、特筆することはまったくない。ゾーラ市の北部に広がる草地であり、獣系の魔物がそれなりに生息していることが、特徴といえば特徴というか、説明文にも困るような平凡な環境である。

 ただ、見渡す限り似たような風景が広がっているくらい、だだっ広くはあった。平時ならば「だからなんなの」という感じで、見通しも良く、さすがに子供を遊ばせたい場所ではないものの、さほどの危険域とは呼べない。


 しかし1551年7月某日、半分は仕事、半分は趣味という感じで、いつものように害獣駆除に勤しんでいたロレンツォは、午後三時ごろだったか、にわかに立ち込める暗雲がもたらす激変に、当惑の声を漏らして空を見上げるしかなかった。


「バカな……北限地域でもあるまいし」


 そろそろ夏の気配が色濃くなり始めた矢先のことである。ちらつく雪は美しいが、けっして幻ではない。触れると溶けて崩れるも、徐々にその勢いを増していく。

 ロレンツォが慌ててゾーラへ帰ろうと歩く、そのわずか数十分の間に、彼の身長ほどに降り積もるという、異常気象がもたらされていた。


 天変地異の前触れか、あるいはすでにその只中なのか。世界が滅ぶなら仕方がないが、そうでないなら死に損だ。

 通い慣れた風景が即席極寒地獄と化していく恐怖に追い立てられるも、雪はますます激しく降り、足は縺れて進まない。


 当時のロレンツォは、まだ杖なしで歩けるどころか、余裕で走り回れる健脚だったのだが、邪魔っけな積雪のみならず、軽装に寒さが堪え、機動力が徐々に鈍っていく。

 魔族の中でも爬虫類系の形質を持つ種族は、変温傾向が強く、特に寒さに弱い。冬眠しようとしている体を叱咤しつつ、必死で足を進めていると、ようやく目的の場所に到着した。


 狩猟小屋、というほど大層な代物ではない。何十年も前から誰も使っていない様子なので、ロレンツォが勝手に休憩場所として使ってきた建物である。

 もとよりこんな事態は想定していない。多少なりとも保存食は置いてあったが、ガキどもが夕飯前にする買い食いレベルのもので、このような緊急避難に耐える蓄えなど当然ない。


 いちおう、その日仕留めた小さな魔物の肉が一頭分あったが、大した足しになりゃしない。暖炉はあるが夏なので薪も少ない。

 外はずーっと薄闇で、時間経過もよくわからない中、ロレンツォは身を縮こめて、ひたすら寒さに耐えた。


 ロレンツォには妻も子もいない。家にいなくても誰も探しに来ない。いや、これではいたとしても来ない方が良かっただろう。

 このときの寒さで脚を悪くして、猟師稼業を引退し杖が必要になったのだが、このとき経験した命の危機に比べれば、すこぶる些細な問題だと言えた。


 朦朧とする意識をなんとか繋ぐ中、何日……あるいはほんの数時間のことだったのかもしれないが……ロレンツォが何度目かに諦めかけたとき、小屋の戸を叩く音が聞こえた。

 それほどおかしなことではない。自分と似たような目に遭っている者が、助けを求めてきたのだろう。


 なにもしてやれることはないが、仮にそれが強盗の類だとしても、ひとまず入れてやらねばなるまいと思えた。

 もはや声を出すのも億劫だったため、ロレンツォは一向に乾かないブーツの片方を、苛立ち紛れに戸へ投げつけることで返事と代えた。


「失礼」


 律儀に言い置いて入ってきたその姿は、ロレンツォの想定とはまったく違った。

 黒髪黒眼に黒服眼帯、まだあどけなさの残る十五歳くらいの痩せた少年である。


「酷い吹雪ですね、さすがに堪えます」


 言いながら、開けた戸をすぐに閉める少年の姿が、どこか妙であることにロレンツォは気づいた。

 降りしきる雪の中を歩いてきたはずなのに、髪も肌も服も靴も、まったく濡れても汚れてもいない。


 魔族なので再生能力があるため、体に傷一つないのはわかるが、逆に服は過剰なほど損傷が伺える。明らかにただ雪道を歩いてきたという様子ではない。

 そのアンバランスさが理解できず恐ろしい。ははーん、さては死神だな? との結論を出しかけたところで、ロレンツォは新たな気付きを得た。


「申し訳ありませんが、少しの間休ませていただいても構いませんか?」

「そりゃ、いいとも……そもそもここは儂の家ではないし、好きにしろ。ただ……」


 平静を装って笑ってはいるが、その実少年の顔は青ざめ、唇は紫色に染まり、全身が震えている。

 老いたとはいえ、それなりに筋肉質なロレンツォと異なり、肉の薄い少年の体では、冗談抜きでこの寒さは堪えるだろう。


「ただ、なんですか?」

「ただ……その、なんだ……少し待て」


 答える代わりに、ロレンツォはほとんど消えかけていた暖炉の火に、残りの薪を放り込んで熾した。

 炯々と燃え盛る炎で、これも最後の一欠片となっていた魔物の肉を調理し、もはや立ってもいられないのだろう、座り込んだ少年の前に置く。


「ほれ、食え。その様子じゃと、補給は一刻を争うぞ」

「そ、そういうわけには参りません。この状況では、あなたもそのような余裕など……」

「だから、この遠慮するやり取りが無駄じゃと言うておる。冷めるぞ、早よ食え」

「……い、いいのでしょうか」

「ガキが震えて腹を空かせとる。そいつに飯をやる。こんなこと虫でもわかる常識じゃろ」

「あ、ありがとうございます。では、失礼して」


 少年の口からは涎が垂れている状態だったのだが、相当に自制心が強いようで、きっちりと半分残して掻き込んだ。

 食べ終わってしばらく壁に背を預けて惚けていた少年だったが、多幸感による支配から復帰したようで、改めてお礼を言ってくる。


「本当にありがとうございます。こんなご馳走にありつけるとは思いませんでした」

「いいから残りも食わんかい。儂ぁもういい、こりゃダメだ、天が狂っとる。こんなパサパサした老体で良ければ、食ってくれても構わん。可食部以外は燃料にもなろう。お前さんだって祓魔官エクソシストだろう、そのくらいの覚悟はしとるはずじゃろ」


 たちの悪い冗談だと受け取ったようで、愛想笑いを浮かべる少年だったが、ロレンツォとしては本気の提案だった。

 やりたいことはまあまあやってきた、さほど未練があるわけではない。若い命の血肉にでもなれるなら、悪い末路と思えない。


 しかし少年の考えは違うようで、おもむろにコートを脱いだ。


「お礼と言ってはなんですが、このような薄っぺらい布切れ一枚で良ければ、ぜひ受け取っていただきたく」

「待て待て、なにを言っとる?」

「安心してください、ほら。下にジャケットを着ているのです。結構厚着して来ましたから」

「そういう問題じゃなかろう」

「そうですね。ではジャケットの方を進呈しましょう」


 そういうことでもないのだが、もう議論する気力もない。どうせロレンツォの方が先に死ぬだろう。老骨の死体から自分の持ち物を返してもらうことに、良心の呵責は起きないはずだ。

 仕方なく受け取った上着をロレンツォが羽織ると、少年は気取った仕草で腕を広げた。


「ちょっと待ってください。それだけでは寒いでしょう。仕上げに魔法を掛けます」

「なんか胡散臭いことを言い出しおったぞ」

「フフ、違いますよ、本当に魔術です。ただ私の固有魔術、少々条件が複雑というか、厳密でして……身内以外にこの使い方をしたことがないので、慎重にやりたいと思います。

 あなたは私をこの小屋に入れてくださったばかりか、食事まで作ってくださった。しかも私の上着を着ておられる。私はあなたを身内と認識するはずだ。あなたは私の味方。味方、味方、味方……」


 条件に必要な自己暗示なのだろう、何度か唱えた少年の手から、青い炎が漏れ出した。


「いきますよ。〈青藍煌焔ターコイズブレイズ〉!」


 その濃密な魔力の塊に巻かれ、ロレンツォが死を覚悟したのはしかし一瞬のことだった。

 呻吟を強いる痛みも熱さもなく、ただ仄かに温かみを帯びるだけだ。


「ふう……成功したようですね」

「これは、魔術の付与エンチャントか?」

「その通り。元々が対象から脅威を退けるべき『守りの火』として発現した能力ゆえ、むしろ本来的な使い方ですので、できるはずと思ってはいましたが、失敗したらあなたは丸焦げになっていました」

「焼死はさすがに勘弁じゃのう」

「すみません。しかしもっと生きる意欲を持っていただきたいものです。私はもう行きますが、あなたにも無事にここを出ていただきたい」

「……儂の聞き違いか?」


 トチ狂ったかと思ったが、眼帯の少年はすこぶる冷静で、むしろ腰を据えて話す気になったようで、ロレンツォの前に胡座をかいた。


「いいえ。先ほど『結構厚着して来た』と申しましたね。実は私はゾーラの祓魔官エクソシストではありません、ミレインです。移動にもそれなりの時間がかかる。この意味がわかりますね?」

「つまりお前さんは……任務の途中で遭難したわけではなく……いや、違うな。任務の途中で遭難しかけているのはそうだ。ただ儂のように吹雪に巻き込まれて立ち往生したのではなく、自ら飛び込んできた」

「その通りです。ゾーラから緊急要請があって、近隣諸国の教会に属する炎使いが集められた。そういうことになりますね」


 相当な修羅場を潜ってきたのだろう、年頃に似合わぬ落ち着きが目立つ少年は、シャツの上からコートを羽織り直し、精悍な表情で宣言する。


「この季節外れの馬鹿げた冬景色には、明確な原因がある。今からもう一度行って、そいつを仕留めてくるのですよ」

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