第42話 その母なるは、ただ負うべき役柄か、それとも気に成る愛着か

 怪盗〈怨念マリス〉についてわかるのは、ただ強大な魔力を持っているという点だけだ。

 大気なのか、圧力なのか、なんらかのエネルギーを無造作に振り回してくるのだが、これがとんでもない破壊をもたらす。


 ヒョードとレフレーズが仕掛ける、あらゆる攻撃は容易に弾かれ、まるで通用していない。

 さすがにここまでとは思わなかった。早急に撤退へ……この場合は「火の衣」の在り処への転進へ切り替えたいところだが……。


「私は気が長い方ですが、今回ばかりはあまり時間をかけていられません。堪忍袋の強度には限度があるので!」

「お前の気分の問題じゃねぇか!?」


 あいにく〈怨念マリス〉がそれを許しはしない。一貫して彼女の標的はヒョードリックだ、不可視の力を盛り盛り寄越す。

 避け続けるにも限度はある。元々ヒョードはスタミナに難がある。レフレーズを巻き込まないよう気を配っていたのもあり、足捌きを一手間違える。


 その一手が命取りだ。これは直撃を食らうとヤバいなと確信するが、すでに限界速度で疾走中で、移動先の地点に先読みで決め打ちされている。

 ヒョードの走馬灯を中断したのは、割って入って立ち塞がって、天使の力に爪を立てるレフレーズだった。


 正確には、彼女の固有魔術によって錬成した乳液に研磨剤となる大山猫石リュンクリウムを混入し、高速循環させる真っ白い円月輪チャクラムが、彼女の両手の先数センチの位置に生成され、火花を立てて食い止めている。

 しかし実力差はあまりに明確で、その拮抗もほんの一瞬のことだった……。




 同時刻、水煙草屋〈紫紺の霧〉にて。エロイーズが服を着てお店に降りていくと、女店主のナゴンが気怠そうに話しかけてくる。


「大丈夫かねぇ、あいつら」

「どんな相手か知らないけど、なるようになるでしょ。あの〈執着スティック〉とかいう奴も相当な手練れよ、並の相手に後れを取ることはないでしょうよ」

「しかしレフィはお前のマッドハニーみたいな仕込みはなにもないだろ?」

「まあね。でもお姉ちゃんはわたしと違って、騙しや芝居が上手いからね。相手や状況によっては、スルッと切り抜けられたりもするし」

「まーあいつはそういう性格だからね」

「それにほら、お姉ちゃんはああいう固有魔術だから。これ話したっけ? 何年か前にある街の門番を出し抜く必要があったんだけど……ほらお姉ちゃんって全身乳首の変態女でしょ?」

「その言い方やめたれよ……いくらあいつでもそろそろ泣くよ……」

「つまり普通に本物の乳首からも自分の本物の母乳と同じ成分の液体を出せる変態なわけ」

「あくまで変態として扱うのかい」

「それでね、お姉ちゃんはその街中に潜入するために、こういう演技をしたのよ」


 エロイーズはおもむろに自分の両胸を両手で鷲掴みにし、ナゴンの顔を上目遣いで見ながら湿った声を出してみせる。


「あ……あっ……ご、ごめんなさい、こんなときに……な、中に子供がいて、今も私を待ってるんです……すみません通してください……」

「えっっぐ。エグいって。え? そんで、なに? 服に滲んでるわけ?」

「滲ませてんのよ」

「マジかよあいつ、そこまでやんの? さすがに引くんだが?」

「ちなみに夫とは別れて一人で子供を育てないといけなくなってる幼妻って設定だったって」

「なんなんだよその凝り方、もはや怖いわ……それはもう全身乳首の変態女でいいよ」

「でしょ? すごいのよ、うちのお姉ちゃん」


 皮肉でもない本気の敬愛のニュアンスを聞き取ったようで、黙り込み耳を傾けるナゴン。

 エロイーズは微笑みを浮かべて、自慢の姉の話を続けた。


「そしてわたしたち魔族の間では、演技の才能っていうのは、魔術の才能に通じている」

「魔力は思念の力だとは、よく聞くからね」

「そゆこと。ただ他者ひとを騙すってだけじゃない、自分自身の感情を意識的にコントロールできるってことだから。怒るときはより強く怒り、笑うときはより高らかに笑う。それが魔力の最大出力を引き上げて、土壇場での突破に繋がることがある。搦め手だけの柔弱な女だと思ってたら、痛い目見るかもね」



 奇しくもそのとき、回想に耽るエロイーズと走馬灯を見るレフレーズは、同じ場面を思い出していた。



 あれは確かレフレーズが四歳、エロイーズが二歳のときだったと思われる。

 当時の両親は事業が忙しく、なにかあったら見られる距離には居つつも、二人の娘にあまり構えない状態にあった。


 二番目の子供ということで気持ちとして落ち着いてしまい、上の子がある程度しっかり者な性格で面倒を見てあげていたというのもあり、両親は甘えたい時期のエロイーズとは、あまり遊んであげることができなかったようだ。

 よくあることだし、けっして両親が悪いわけではないのだが……当時のレフレーズはエロイーズが自分にチョロチョロついて歩くことを、いささか煩わしく思っていたのも事実だ。


 その日は家の庭にレフレーズが、何人かの友達を招いて遊んでいたのだが、案の定というべきか、当時はかなり引っ込み思案で他者ひと見知りだったエロイーズが、レフレーズの袖を引っ張ってきたことに苛立った。


「もーエリーちゃん、はなして! 今わたしたちお店やさんごっこしてるの! エリーちゃんにはわかんないでしょ? あっち行っててよ!」

「ご、ごめんなさいおねえちゃん……」


 エロイーズはショックを受けた様子で、しょんぼりしながら庭の端に歩いていった。

 強く言い過ぎたかとも思ったが、友達たちはレフレーズの大声を軽く諌めるだけで、エロイーズが可哀想だとか、混ぜてあげるべきだとは言わない。つまりはそういうことだった。


 まったくエリーちゃんには困ったものだわ、いつでもわたしにべったりなんだから……と、ふと妹の姿を探すと、家の方から庭へと戻ってくるところだった。

 また両親に構ってアピールしに行って、やんわり追い返されたと見た。懲りない子だ、仕方ないというのがわからないのだろうか?


「……」


 幼い頃のエロイーズは、わりと感情の起伏が少ないというか、表現が苦手な子供だった。

 泣くでもなく、ただ少し俯いて、庭の生垣に近づいた彼女は、おもむろにお花の蜜を吸い始めた。


「…………」


 寂しいのだろう。見ればわかる。お花を見つけると必ずと言っていいほどちゅーちゅー吸い始めるし、普段から自分の指を舐めている。

 乳離れは早くに済んでいる。しかしまだ心は赤ちゃんのままなのだ。だからといってレフレーズになにかできるわけではない。


「……ごめん、みんな。やっぱりちょっとあやしてくるね」


 関係ないし、どうでもいい、そんなのパパやママがやることじゃん……とか、もうそういうことを考えるのが面倒になった。

 ほとんど衝動的に立ち上がり、せっかく家に招いた友達たちに言い置いて、憎たらしい妹のところへ一直線に駆け寄る。


 エリーちゃんのせいでいつもいつもわたしは自分の遊びができない……みたいなことを言うつもりだった。

 しかしいざ自分と同じ色の髪を靡かせて振り返り、自分と同じ色の眼でじっと見てくる妹を前にすると、なにを意図したわけでなく、レフレーズの唇は、自然と柔らかい曲線を描いていた。


「エリーちゃん、おいで。わたしと遊ぼ?」

「……お、おねえちゃん」


 姉の急な態度の変化に戸惑い、まごつくエロイーズ。悪戯を叱られたばかりの子猫のよう。とはいえ両親はどんなに忙しくても、娘を怒鳴りつけたりしない。妹をこういう様子にさせてしまっているのは自分だと、当時のレフレーズなりに理解はしていたつもりだ。

 そんなつもりはなかったのだ。かわいいかわいい、大好きな妹のエロイーズ……ただいつもいつもまとわりつかれると困るだけで、本当は一緒にいて、悪い気持ちになるわけがない。


 そのとき、ビクビクと距離を図りかねている妹に対し、レフレーズが思ったのはシンプルなことだった。

 この子は、わたしが守ってあげないと。どんなに大きくなったって、たった二人の姉妹なんだから、ずっと仲良しのままでいたい。


 最近になって当時のことを話すと、「じゃあお姉ちゃん、わたしに対して発情したってことなの!? 気持ち悪いんですけど!?」などと、大変失礼なことを言ったのだが、照れ隠しだと思っている。

 よく言われることだが、母性本能という概念は、存在がやや疑わしい。少なくとも父性や母性などというものを、生得している生き物がいるとは考えにくい。


 それは言い換えれば、誰だって後天的に獲得していい、普通の感情に過ぎないのだ。

 レフレーズの魔力属性は、エロイーズと同じ錬成系だった。それがただ、たまたまそういうふうに結実しただけと考えられる。


「わっ!? なにこれ!?」

「んっ……」

「エリーちゃん!? なんでなめるの!?」

「お、おいしそうだったから……」


 いきなり指先から漏れ出た液体……いわゆる醍醐というやつだった……それだけでびっくりしたのに、ノータイムで妹が吸いついてきたのは、さらにびっくりした。

 仕方がないので、されるがままになっていると、エロイーズはようやくちっちゃなお口を離し、満足そうに息を吐く。その様子がかわいくて、レフレーズは思わず笑ってしまう。


「あまくておいしい……」

「そう? すごいでしょ? おねえちゃん、エリーちゃんのママになっちゃった!」

「エリーのママはママだよ」

「それはわかってるよ! でもママは忙しそうだから、わたしが代わりにママになってあげるよってこと!」

「で、でも、これ、おねえちゃんのからだからでてるよ。おねえちゃん、おなかへっちゃう」

「それは大丈夫! エリーちゃんのぶんのおやつ全部わたしにくれたらいい!」

「……」

「あ、ごめん、それはさすがに泣くよね! ごめんって! うそだから! おやつもいっしょに食べようね、エリーちゃん」

「……おねえちゃんともっとあそびたい」

「いいよー、あそんだげるよー。なにしてあそぼっか? エリーちゃんがわかる、むずかしくはないのにしてあげないとね」


 我慢していた堰が切れたのか、珍しく甘えてぐずる妹をあやしているうちに、レフレーズの頭に良い考えが閃いた。


「そうだ! エリーちゃん、わたしといっしょに『姉妹ごっこ』をしよう!」

「しまいごっこ……?」

「そう! わたしとエリーちゃんはー、ほんとのお姉ちゃんと妹でしょ? だからかんたんにできると思うんだー。わたしにもできるし。

 いつものわたしとエリーちゃんだと、いつものわたしとエリーちゃんになっちゃうから、劇とかに出てくる、ぜんぜん知らない別の姉妹になりきっちゃうの。わかる?」

「……えほんにでてくるしまいのまねをする。こないだママがよんでくれたえほん」

「そう、そういうこと! エリーちゃんかしこいねー!」

「えへへ……」

「かわいいよーエリーちゃん。じゃあ、最初はこうしよう。

 エリーちゃんはわたしにひっついてばかりいる、あまえんぼうの妹ちゃん。でもほんとはとっても強くて、わるーいやつらをたべちゃうの。がおー!」

「こわい……」

「エリーちゃんがそのこわい子をやるんだよ。できる?」


 エロイーズはしばらく考えた後、レフレーズの二の腕に抱きつきながら、なにもいない植え込みに向かって、空想遊びで台詞を放つ。


「お、おねえちゃん、あいつたべていい?」

「いいよーエリーちゃん、上手だよー」

「えへへ。おねえちゃんは……?」

「わたしはねー、んーとね……わたしはエリーちゃんをいじめるやつらをやっつける、すごく強いお姉ちゃん! ふだんはのろまだけどねー、おこるとすっごくこわいの!」

「こわい……」

「大丈夫、わたしはエリーちゃんのてきをやっつけるだけだから! おうおう、エリーちゃんに近づくなよー、ぶっとばすぞー」

「かっこいい」

「でしょー? それでねー、わたしたちにはすっごい力があってねー」


 結局この日、家に招いた友達たちは、みんな怒って帰ってしまったが、そんなのはどーでもいいー。

 友達なんていくらでも作ればいい。でもレフレーズの妹はエロイーズしかいない。


 この日手に入れたのは本当に大切なものだったと、レフレーズは今でも思う。



 なぜ今こんなことを思い出しているのかわかった。この場にはエロイーズはいないが、同じくらい大切な存在になった相手がいる。

 どんな力を使っているのか知らないが、よく知りもしない分際で、かわいいヒョーちゃんに触れるなんて許さない。


 魔術の力は思念の力だ。醍醐を生み出す出力が、円月輪の回転数が上がる。

 それでもやはり力の差は歴然で、拮抗は一瞬で終わり押し流されそうになる。


「!」


 だがその絶好の機会を逃すヒョードではなかった。レフレーズの頭を柔らかい感触が包んだのを感じる。

 レフレーズの上下に構えた両手の間を通すように、横薙ぎの一撃を放ちながら、ヒョードは肘の内側で優しく押さえつけてくる。


 数十発分を右手の爪先に溜めた爆裂斬撃で、不可視の力を一瞬だけ一点収斂で相殺しつつ、勢いそのままレフレーズの頭を右腕で、次いでお尻を左腕で抱え込んで転がるという、回避行動も並行するヒョード。

 レフレーズが考えていたのは、次の一手でも決着方法でもない。たまには誰かに甘えるのもいいなという、ただそれだけだった。

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