第31話 大悪を誅す
「……〈巫女〉さんよぉ……あんたさては実質達成不可能な課題を五つ用意したな?」
『なにを言っているのかしら……当たり前よ。わたくし一度でも結婚相手を募集していますと言ったかしら? しつこい連中を拒絶する方便に決まっているでしょう? ば〜っかじゃないの? むしろ第一の課題が一番イージーだったのよ? あの程度ができないようじゃダメね〜』
急に本性を出してきてびっくりするが、もしかするとこれはアリオーソを幻滅させて完全に諦めさせるための、〈巫女〉なりのアフターサービスなのかもしれない。
だがカンタータの糸を解かれても立ち上がることはできず、アリオーソは座り込んだままで、自嘲の笑みを浮かべている。
「そうだよね……自分で手に入れられなかったというのが、答えそのものだ。他の四人はともかく、俺にその資格がないのは間違いないや。なんとも思い上がったもんだ」
ヤバいな、とヒョードは漠然と感じる。アリオーソの眼が
悪魔は心の弱っている者を狙って取り憑くと聞くが、あれは本当に迷信か?
やがてようやくその場を動いたかと思うと、彼は力なくフラついたまま背中を見せた。
「カンタータ、君の言う通りだ。俺が間違っていた。
巫女様、もう二度とあなた様に近づかないと誓います。
そして〈
崇拝は一種の麻薬だ。これほどの狂信が絶たれた反動は大きい。
勢い余って自殺するほどの急性の禁断症状が出るのなら、わかりやすさに限ってむしろマシかもしれない。
仮にこのまま彼が元鞘に収まりカンタータと結婚したとして、必ず
ではどうすれば良いのかは、初恋泥棒でありながら、恋愛音痴なヒョードにはわからない。
「待っ……」
『待ちなさい、アリオーソ』
カンタータより一瞬早く、呼び止めたのは誰あろう、〈輝く夜の巫女〉である。
驚き振り向くアリオーソの、未来が今まさに変わった……そう感じたヒョード。
『あなたなにか勘違いしていないかしら? わたくしがあなたたち求婚者らを拒絶したいのは、あなたたちがわたくしに相応しくないから……今のあなたが、わたくしの隣に立つには力不足だから。そのままのあなたでは何度来られてもしつこいとしか感じない。そう言っているの。それで諦めるのもまた、あなたの自由ではありましてよ』
蛇は糸を繰らない。操らずして操る血塗れの人形は、眼に輝きを取り戻し自ら踊り始める。
「つ……つまり、まだチャンスはあると?」
そちらの水が甘いかはわからない。ただそこには活き活きと生きるための「目的」が存在する、それだけは間違いない。
『これはあくまで、わたくしの勝手な独り言として聞いてくださいね。オソレーという霊山の存在は知っているかしら? かの救世主ジュナス様が、重要な逸話を残している聖所の一つです。そこで修行したあなたなら、わたくしを振り向かせることができるかもしれないわね』
「なっ……!?」
カンタータが絶句するのも無理はなかった。それはせめて〈巫女〉の元で平穏に暮らしてほしい、彼が幸せであるならば、隣にいるのは自分でなくていいという、彼女の慎ましい譲歩を踏み躙り、ささやかな願いに真っ向から反するものだからだ。
しかしアリオーソはもう止まらない。せめて家に帰って悠長に荷造りでもしてくれればいいのだが、どうも猶予はなさそうだ。
「待っていてください、巫女様! 一刻も早く、あなたの試練を乗り越えてみせます!」
『期待しているわね』
答えを聞くが早いか、アリオーソはすでに駆け出している。
当然カンタータが糸を伸ばして捕縛を試みるのだが、アリオーソが軽く払いのけるような動きをしただけで、簡単に遅れを取ってしまう。
「カンタータ、あんたの依頼は確かこうだ」
早くもすでに夜の街へと消えようとしているアリオーソの後ろ姿を見送りながら、あくまで怪盗〈
「〈巫女〉に盗られた婚約者の心を、あんたの元に盗り返してほしい……違うか?」
一瞥し、相手の縋るような眼をまっすぐに見返したヒョードは、返事も待たずアリオーソの追走を開始した。
一秒かからず到達し、クソバカ野郎の首根っこに、躊躇なく手を伸ばす。捕らえた!
「……あ!?」
と思った。いや、間違いなく掴んだはずなのだが、次の瞬間にはアリオーソは遥か先を走っている。同じことを何度か繰り返すが、まるで昔の哲学者が論破困難な詭弁として例示した、鈍亀に追いつかない俊足男のパラドックスだ。
腹立ち紛れに死なない程度の〈
動物の豹ほど顕著ではないが、
「……そういう、固有魔術なのよ……逃げに徹した彼を捕えるのは、かなりの至難なの」
息切れし立ち止まっているヒョードに、汗だくのカンタータと、さらに遅れてガルサが追いついてきている。
「識別名を〈
「つまり、あれか。俺があいつに触れた瞬間、俺は一秒失速し、あいつは俺の速度で一秒先へ進んでいる……」
「そういうことよ……生物にも物体にも、魔術にも適用される……私の糸も、彼を再び縛ろうとして展開する速度を盗まれた」
油断せず拘束したままにすれば良かった……あるいはその能力について事前に共有しておくべきだった……後悔するのは自由自在だ。
しかし起きてしまったことはどうにもならない。さしものアリオーソでも、過ぎた時間を戻すことはできないだろう。
「あなたたちは……」
カンタータはこの件の総括に入ろうとしている。このままでいいのだろうかとは思うが、ではいったいなにができる? 捕まえられないのなら追い続けて説得か? カンタータにもできそうにないことを、ヒョードやガルサができるのか?
「最初から最後まで誠実に仕事をしてくれた。結果的には失敗だったかもしれないけど、感謝以外があるわけがないわ」
「気休めは止せ。あんたからはまだ報酬を受け取ってねぇよな。そしてこの俺が受け取るのは成功報酬だけだ。意味はわかるな?」
カンタータは弱々しい諦念の笑みを浮かべるばかりだ。
「ありがとう。だけど、これ以上あなたたちに頼るわけにはいかないわ。
大丈夫、希望が絶たれたわけじゃない。善後策を練るわ……少し、疲れた。一人にしてもらえると、助かる……」
そう言ったきり、アリオーソの消えた方へ、ゆっくりと歩き出す彼女。
こんなときでも背筋はピンと伸びているのが、逆に痛々しく居た堪れない。
だがヒョードもガルサも彼女を止める言葉を持たなかった。
呆然と見送るしかない彼らに、使い魔の蛇が悠然と追いついてくる。
『あなたにも火を点けてあげましょうか、怪盗〈
物理的にも心理的にも、上から目線の物言いに、不思議と腹が立たない。
「……言ってみな」
『不可能に挑むというロマンはお嫌い?』
なんとまあ短く的確な殺し文句を即座に用意するものだ。
吸った息とともに怒りも自ずから呑み込み、挑発にただ応える。
「次はご尊顔を拝みてぇもんだな、〈輝く夜の巫女〉様。せっかく吠え面かいてくれるのに、使い魔越しじゃ味気ねぇ」
『その意気でなくっちゃね。やれるものなら、是非このわたくしを引きずり出してごらんなさいな。そのときは直接耳元で褒めてあげるわ』
言ったきり、どこかへ去る青い有翼の蛇を、やはり睨みつけるしかできないヒョード。その肩をガルサがポンと叩いて囁く。
「大将、今俺たちにできることは一つだ。次の求婚者も都合よく、俺たちの元へ辿り着く……その幸運を祈る、ただそれだけだぜ」
彼の言う通りに思える。
今夜はもう、帰って寝よう。
「アクエリカは悪くない……アクエリカは悪くない……」
あてどなく彷徨う道すがら、呟くそれが自己暗示だと、カンタータは自覚している。
わかっているのだ。アクエリカはいつもカンタータより遥か先を見ている。やり方こそ露悪的ではあるものの、彼女なりの優しさではあるのだろう。
よしんばそれで死んだとて、生きる屍よりはマシ……カンタータ自身はどちらかというと、太く短く生きる派なので、ある程度は同意できなくはない。
勝手に惚れられ、振り払っただけの女を恨む筋合いなどない。アリオーソの意思も尊重するべきだと、必死で自分に言い聞かせる。
曲がりなりにも聖女の称号を冠する彼女の、それがせめてもの矜持……だったのだが。
『なにも難しいことは言わないわ……考え方を変えたらどう?』
一瞬、アクエリカの使い魔が追ってきたかと思ったが、そうではない。
代弁される声も、代弁する生き物も異なる。青い有翼の蛇ではなく、蝙蝠のようなモモンガのような、猫くらいの大きさの獣。確か
『初めまして。私はヴァイオレイン・ヴァレンタイン。この名は聞こえているかしら?』
「……五年ほど前に台頭し始め、早くも枢機卿候補に数えられる出世頭の新米司祭。赤騎士を兄に持ち、後ろ盾となることを差し引いても、その名は轟くに余りあるわ」
『あえて言うなら、私の方が姉だけど。まあ、それはいいわ。たとえば、私はこう考える……私はアクエリカを愛している。でも私は彼女を試さなければならない。彼女は、私が愛するに足る女か否か、与える試練で見極める』
カンタータが黙っているだけで、ヴァイオレインは教導を示す。
『私怨の殺しを厭うなら、こう考えなさい……大悪を誅す大義を、誰も咎めはしないと』
カンタータの中で歯車が噛み合う音がした。噛み合ってはいけない歯車だったのかもしれない。が、残念ながらこの接合点はすこぶる心地が良い。
カンタータはすぐさま跪き、新たな上役に伺いを立てる。
「私は、なにをすれば?」
『あなたの得意なことを』
いかなる〈
ならば彼女の本質を示す、〈暗殺聖女〉に徹しよう。
「御意に……猊下」
『フフ。その呼び方は、少し気が早いわ』
蜘蛛は敵を追わない。網を張って構え、毒を打ち込む機を待つだけだ。
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