第17話 クソバカ野郎にゃ困ったもんだね
夕方になり、ヒョードリックとエロイーズが水煙草屋〈紫紺の霧〉の二階へ戻ると、いつもヒョードが使っているベッドで、レフレーズがぐっすり眠っていた。
「お姉ちゃん、いやらしい……」
「いや待て、ただ寝てるだけだろ。そういう発想をするお前の方がいやらしい」
「なんでよ……!?」
「うーん、ヒョーちゃんの体液ー」
「ほら、ヤバい寝言言ってるでしょ……!」
そこへ〈紫紺の霧〉の主である、ナゴンの使い魔の猿がやって来て、彼女の声を代弁する。
『お取り込み中に申し訳ないんだけど、あんたたちに客だよ。二人で相手しておくんな』
「だそうだ。こっちの変態はここに置いておくとして、ついてきてくれ、エロエロイーズ」
「なんか他意のある呼び方だけど、いいわよ」
ファントムマスクを装着した二人は、誰でもない怪盗と化す。
応接室として使わせてもらっている休憩室に移動すると、客は座って待っていた。
「……」
長い黒髪はワンレングスのストレート。額の真ん中できっちり分けてあるのに、どこか振り乱している印象を受ける。
それもそのはず、切れ長の眼は落ち窪んで隈が濃く、瑠璃色の双眸は強い切迫を訴えている。
頬はこけて唇は乾き、肌は明らかに種族特性とは違う意味で青白い、今にも倒れそうだ。
贅言を吐く余裕すらないようで、単刀直入に用件を切り出す女。
「お初に、〈
「やっぱそうか……なんだって〈
『聞こえたよ。宿代上げてやろうかね』
「すいませんそれは勘弁してください」
ヒョードが家主と揉めている間に、気を利かせたエロイーズが話を進めてくれる。
「巷では音楽家として有名だし、そういう意味での二つ名だと思われてるけど。実際は小国の王を一夜で沈めた極秘任務を筆頭とする、毒と糸を使う〈暗殺聖女〉の側面が強い。あなたが本気を出せば、ここにいる〈
もっともと言える彼女の疑問に、女……カンタータは憔悴を押して明答する。
「そこまで知ってくれているなら話が早い……端的に申し上げるわ。私の婚約者が〈輝く夜の巫女〉に課せられた『宝の枝』なる未知の品。これを彼に代わって入手してほしいの」
例の件にまた挑めるのかと喜ぶ反面、どうも今度は話が拗れていそうだと、いささか鼻白むヒョードの表情が、マスクで隠されているのは幸いだった。
カンタータの婚約者は名をアリオーソ・テンポルバート。数年前、〈巫女〉の魔性に
「それはまた、なんというか……」
「大したクソバカ野郎なのね……」
歯に衣着せぬエロイーズの言い草に、カンタータは怒るでもなく苦笑する。
「その通りとしか言いようがないわ。別になんらかの魅了権能を食らったわけでもない、ただ普通に鼻の下を伸ばしただけ。情けないことといったらない」
「えーと、俺はこっちの小さいにゃんこちゃんとは違って節度があるから、慎重に尋ねさせてもらうが」
「誰が小さいにゃんこちゃんなのよ……」
「あんたという者がありながら別の女、それも聖職者に求婚しちゃってるんだよな? それって実質あんたとの婚約は破棄されてねぇか?」
「節度どこよ、デリカシーないじゃない」
カンタータは……おそらくもはや狼狽する段階をとうに過ぎてしまっているせいだろうが、やはり冷静である。
「そうね。もはや彼にとっての私は、昔の女という認識だと思うわ」
「その上であんたは、彼の〈巫女〉への想いを応援しようとしている。彼に課せられた難題の代行のそのまた代行を依頼したい、ってことでいいんだよな?」
あくまで業務上の確認として水を向けてみるヒョードだが、カンタータは言わんとするところを正確に汲んでしまう。
「不思議でしょうね。自分を捨てた男を、なぜ捨てさせた女とくっつけようとしているのか。苦肉の策ではあるけれど、こうでもしないと、私は安心して彼を恨むことすらできそうにないのよ。
これもまた伝聞の伝聞ではあるのだけれど、『宝の枝』に関する言説は、いわく……東の山に金の茎、銀の根、真珠の実を持つ木が生えている。それを一枝折って持ち帰りなさい、と」
「東の山……? ていうと、ずいぶん漠然としてるな。この街の真東に山ってあったっけ?」
なんとなく嫌な予感がしたのだが、案の定、カンタータの秀麗な眉が曇る。
「そう、この話は漠然と『なにか東の方にある山にそういうのが生っているらしい』という、仮に元となる伝承の発祥が隣の大陸だとしてもおかしくない……要は、端から本物を探させる想定ではないと考えられるわけ。ところが彼は『愛の証』とやらとして、あるかどうかもわからない『本物』にこだわり、東に
話が見えてきた。カンタータは本当にかなり参っている様子で、額を掌を当てて言う。
「どうしようもないボンクラだけど、私は彼にどうしても死んでほしくない。〈巫女〉に取られるのは癪だけど……少なくとも彼女の課題をクリアし、永遠の愛なりなんなりを誓ってくれれば、彼の生存と居所は確定できる。後は……もう、好きにしてくれればいい。とにかくこのままだと彼が、どこかで霊峰の露と消えるのは避けられない。それだけはどうにかしたい」
「バカが死にに行くとわかってて放置するのは寝覚めが悪いわな……わかった、引き受ける。それはいいんだが、その婚約者……アリオーソさんには、このことは?」
額から手を離し、上げたカンタータの顔は、決意に満ちたものだった。
「話したわ。彼は気分を害した様子もなくこう答えた。『そうかい、好きにするといい。だが俺は俺で諦めないよ。本物の在処を暴くのは、真実の愛だと信じてる!』」
「ポジティブクソバカ野郎なんだな……」
「本当にそう。そしてまた山へ出かけて行ったのよ。今回が彼の命を救う最後のチャンスかもしれない。あなたたちが気負ってもらう必要はないけど、私としてはそういうつもりなの」
「難儀なことだ。ま、俺らとしてはやることは変わらねぇから、問題はねぇけどな」
「よろしくお願いするわ」
姿勢よく頭を下げてくるカンタータに、エロイーズが率直な意見をぶつける。
「洗脳、催眠、幻惑、調教……記憶消去に感情改竄。いくらでもやりようはあると思うけど」
「なんてことを言うんだお前は」
「だってそうでしょ。尊厳を破壊しようってんじゃないのよ。命の危機から救ってやるわけ、手段を選ばないことを感謝されこそすれ、文句垂れられる筋合いなんかないはずよ。その婚約者さんだって悪い男ではなさそうだし、理解を示してくれると思うけどな」
カンタータはゆっくりとかぶりを振る。
「確かにそうなんだけどね。でも、彼の心まで変えたくはないの。あなたにもきっとわかる。惚れた側に弱みはあっても、それが罪とは思わない。どんな場合でもあってもね」
なにか感じ入るところがあったのか、エロイーズはチラリとヒョードを見てくるが、視線の意味はわからない。
「どうした、小さいにゃんこちゃん」
「いいからさっさと始めるわよ」
なんで怒られたのか不明だが、ひとまずヒョードは腰を折り、優雅に一礼して請け合う。
「では
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます