第16話 ベイビーお熱かこの野郎?

「ど……どういうことなんですか!?」


 思わず直属の上司のデスクを両手で叩くセルゲイに対して、当の管理官マスターはというとすこぶる冷静な反応を返した。


「まあそう怒るでない。書類ドキュメンちゃんたちがびっくりしてるだろうが。おーよちよち、怖かったでちゅねー。このお兄ちゃんはちょーっと興奮してるだけで、悪い子じゃないんでちゅよー。だから許してあげてくだちゃいねー」

「あ、あの、アイさん、確かに今のはセルゲイくんが全面的に悪かったですけど、だからって煽り散らかすのはやめたげてください!」

「なにを言ってるアズロラ? 私はただかわいい書類ちゃんたちを宥めているだけだが?」


 いや、いつも通りではあるが、これを冷静と呼ぶのは語弊があるかもしれない。

 彼女いわく、「私は少なくともこの職にあるうちは、デスクワークに心血捧げると誓ったのだから、書類を我が子のように愛するのは当然だろうが」とのことであった。


 実際に書類を撫でているのはアイアンテ・エルドレド、女、二十三歳。長い銀寄りの金髪と鼻筋を横断する傷痕が特徴の祓魔管理官エクソスマスターだ。

 彼女の泰然とした態度はセルゲイを鎮めるどころか、ますますいきり立たせるばかりだった。


「怪盗〈亡霊ファントム〉を……つまりと!?」

「お前も私に撫でてほしいのか? 落ち着けよ、最後まで聞け。上には上の考えがあるし、私はそのまま伝えているだけだ。ときにお前たち、〈亡霊ファントム〉一味の正体と思しき男女三人組をマークしてるんだったな?」

「はい。正確には逃げられてばかりですが」


 アズロラの答えにアイアンテは頷き、デスクワークを進めながら話を続ける。インク壺に羽ペンを浸し、慈愛を込めて書き物をする彼女。


「おー、よちよち、ミルクの時間でちゅねー。くーろいミルクだ書類ドキュメンちゃーん、たーんとお飲み」

「アイさんすみません、うちの相棒がほんとにキレそうなので、こっちに集中してもらってもいいですか? ほんとポーズだけでいいんで」

「バカを言え。私ほど優秀な女だと、二種類の育児を同時並行できる。……とはいえたまには生きている方のガキを優先してやるか」


 セルゲイの表情がよほどヤバいことになっているのか、アイアンテはペンを置いて肩をすくめた。


「やめろと言ってるんじゃない、そのマークは続けろ。上手いこと監視下に置いておけよ……というか疑っていない風を装って近づき、情報提供などの形で協力してやるといい」

「な……! 野放しにするだけでは飽き足らず、あまつさえ奴らの犯罪の片棒を担げと!? た、確かに最近の俺たちが不甲斐なかったのは認めます! 自分から担当を申し出ておきながらこの体たらく……しかし、そこまでの侮辱を受けるほどではないはず!」

「だから最後まで聞けと言っただろ。天網恢々疎にして漏らさず、しかしときには綱挙網疎との使い分けが求められる。これがまさにその場合なのだよセルゲイくん。なにも永遠に泳がせろと言っているのではない。捕まえるのを止せと言っているのさ。オーケーベイビー?」

「は、はあ……」


 セルゲイの血圧がいささかなりとも下がってきたのを感じたようで、アイアンテはまた書類仕事に戻りながら片手間で訓示を垂れる。


「あいにく現状、例の『難題』とやらをクリアできる可能性がもっとも高いのが、他でもない我らが親愛なる〈亡霊ファントム〉なんだ。カネモッテーラに限らず、おそらく今後も奴に代行依頼が集中する……むしろそう誘導すべきとすら言える。

 いいか、先走るなよ。奴を再び確保に走っていいのは、〈亡霊ファントム〉が宝を得たときではない。その課題の代行により、求婚者が見事その縁を結んだときだ。

〈輝く夜の巫女〉たらいうけったいな二つ名の神秘性を剥ぎ取り、あの女を……アクエリカを墓場へ続く花道絨毯アイルランナーの上へ引きずり込んだときこそが我々の勝利なのだ」

「は、墓場は言い過ぎでは……?」

「そこもまた誤解だな。まともな死に方が可能となるような生き方をさせてやるという意味に相違ない。これは皮肉ではなく本当に優しさのつもりで言っているよ、少なくとも私自身は。なにせあいつは、ほら……知っているだろう、ああいう生い立ちだからな」


 子供だの赤ちゃんだの、好き勝手呼んでいる部下や書類を見るときとは、また異なる慈愛の表情を浮かべるアイアンテを見て、セルゲイはいよいよ冷静さを取り戻さざるを得ない。


「アイアンテさんは確か、グランギニョル猊下とは同い年で、神学校で級友だったとか……」

「いちおうの親交はあったがね。あいつが私を覚えているかは知らん。問題は私が当時の様子から兆候を想起するまでもなく、上層部の一部には私以上にあの女の台頭を危惧する一派閥が既存していることだ。だからこうして一種独特極まりない圧力をかけられているわけではあるものの、一方で私自身も同意はしている」


 いつになく口数が多い。セルゲイを嗜めてはいるが、アイアンテ自身も平常心でいられないのだろう。それを重々理解しつつ、アズロラは率直な疑問を挟んだ。


「グランギニョル猊下が約束……特に自分から言い出したことは守るタイプの方だというのは伺いました。しかし……形の上でも結婚させることで、彼女の伸びた野心の牙を折る……そう上手くいくんでしょうか?」

「さあな……正直言ってダメ元策の一つでしかないとは思う。確かにアクエリカは『家のぬくもり』を知ってはいるかもしれない。家を燃やした火で、暖を取っていたかもしれないという意味だが。とはいえ『家族のぬくもり』は知らないはずなんだ、与えてみねばわかるまい」


 有効かもしれないとは思う一方で、気乗りはしないらしく、ぐでーっ、と椅子の背もたれに体重を預け、珍しくだらしのない様子を見せるアイアンテ。

 かと思えば数秒で姿勢を正し、机に肘を突き口の前で手を組む。


「今、アクエリカは本庁の上級職員として勤務しているだろう。あと半年もすればまたどこか小さめの教区で、一年ほど司教を務めることになるはずだ。それが終わればゼファイル教区の司教に就任するというのが大方の見方だ」

「ゼファイル、というと……伝統的に枢機卿が治めるという、古い教区ですよね……?」

「ああ。つまり……そういうことだ」


 セルゲイもようやくコトの重大さを理解してきたようで、赤らんでいた顔を青ざめて尋ねている。


「下手すれば、次にグランギニョル猊下がこのゾーラに帰ってくるのは、教皇選挙に出馬するときかもしれないと……?」

「さすがにそれは先走りすぎだ。どんな出世頭だろうと、理論的に考えて枢機卿会議を何度か経ることになる」

「ということは、アクエリカさんが二年以内に枢機卿に任命されることはほぼ確定、ってことですよね……!?」

「まあ、そういうことになるな。アクエリカを穏便に挫くなら、ここが最後のチャンスだと。そしてあいつが罷り間違って次期教皇に、いや枢機卿になるだけでも、金銭換算にして怪盗〈亡霊ファントム〉がこれまで盗んできたお宝の総額を遥かに上回る損失を、教会が、ひいては世界が被るというのが下命の理由だ」

「そして、アイさんも……」

「けっして杞憂ではないと思っている」


 しばらく黙っていたかと思えば、セルゲイがいきなり制服の上着を脱いだので、アズロラは慌てて引き止めた。


「ちょ、ちょっとセルゲイくん、なにも辞めるなんてことは……」

「違う、アズ、早とちりするな。やるなら徹底的にというだけだ」


 そのまま丁寧に畳んで小脇に抱え、シャツのボタンをいくつか外してラフになったセルゲイは、気まずそうに上司に伺いを立てる。


「この方がいいでしょう。俺たちの顔は割れていて、すでに連中に祓魔官エクソシストだと知られている。ならせめて非番という体裁で接触します。いくらか警戒が和らぐはずだ」

「サンキューベイビー、やる気になってくれて嬉しいよセルゲイ。君の矜持に障るというのはわかっている。悪いが、仕事として割り切ってくれたまえ」


 アズロラにも目配せで了承を取ってきたアイアンテは、一息吐いて鼻の傷痕を指でなぞる。


「結婚はいいぞ、君たち。機を逸した私が言うのだから間違いない」

「アイさんは、やっぱり、その傷が……?」

「ああ、現場時代に受けた拷問の名残りでね。やり方によっては、こんなちっちゃな端緒からでも死に至るのが銀の刃というやつだ、マジに命がヤバかった。我々魔族は再生能力で、ほとんどの傷が治るだろ。だからこそ人間時代よりさらに文字通り『一点の瑕疵』が問題となる。相手がどーでもいい男だからよかったものの、これでもし愛していたら傷心まで一生ものだ」

「そ、それはまたなんというか……ご愁傷様といいますか……」

「いい、いい、気にしていないことで気を使う必要はないよ、アズロラ。私より気になるのは君らの方だな。ぶっちゃけ訊くけど、結婚とかしないのかい? 職務規定上も規範上も問題ないというのは理解しているはずだが?」


 アズロラはセルゲイと顔を見合わせる。


「セルゲイくん、誰かとする予定ある?」

「ないな。アズは?」

「ないなー」

「そっか。だそうです」


 二人してアイアンテに視線を戻すと、なぜか頭を抱えて顔をしかめている。


「いや、そうじゃなくて……ああもう、甘酸っぱいなあ、もどかしいなあ! 私にもそんな時代とかあったのかな!? ねえどう思う!?」

「いえわたしたちに訊かれても」


 すっとぼけたふりをしつつ、アズロラはアイアンテの言いたいことがわかっていた。

 いちおう幼馴染同士なので、周囲にそういう扱いをされた時期もあったが、今は完全に仕事上の相棒でしかない……少なくともセルゲイの方からすればそうだろう。


 淡い気持ちが、続いてはいる。煮え切らない意気地なしは、アズロラも同じなのだ。

 しかし現時点で、アズロラに勝ち目はないと認識している。


 セルゲイは故郷に好きな相手がいる。リュージュときたら異性にも同性にもモテモテなのだから始末が悪い。

 そしてそれ以上に、今のセルゲイは、仕事が伴侶……特に〈亡霊ファントム〉逮捕に、心の底から熱を上げているのだから。

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