第8話 我に名はなし姿なし
男が名乗るや否や、後ろからチューベローズ姉妹に猛烈な力で引っ張られたヒョードは、やむなくその場を辞する運びとなった。
「うおっ、な、は!?」
「ごめんなさーい、わたしたち用事を思い出したので失礼しますー」
「え、ちょ、待っ」
「いいから行くわよ……!」
呆気に取られるおっさんを取り残し、数ブロック先でようやく一息吐いた姉妹に、されるがままになっていたヒョードは苦言を呈す。
「なんだよ、別にお前らをナンパしたわけじゃねぇだろ。警戒しすぎじゃね?」
「ハァ、ハァ……呑気ね、あんたは……あいつ絶対ヤバイわ、只者じゃない……」
「そうねー……たぶん、洞察力が高いタイプ」
根拠があるかはわからないが、このにゃんこたちは勘が鋭い。ひとまず信じることにする。
「マジか……もしかして俺、カマかけられそうになってた?」
「ありうるねー。ヒョーちゃんかわいいし♡」
「乙女みたいなこと言ってたヒョードが、ほんとに乙女にされちゃってた……ってコト!?」
「おい今それやめろ、真面目に訊いてんだよ。誘導尋問されそうになったかって……」
「むしろ乙女じゃなくされたかもー」
「なにを誘導されそうになったって……!?」
「性癖暴走を止める薬とかねぇのかな」
時間経過である程度は治まるようで、レフレーズがキリッとした顔で見解を示した。
「とにかく、あの人とあのまま迂闊に喋ってたら、ヒョーちゃんが怪盗〈
「そうなるとわたしたちの念入りな偽装もパーってことになる……勘弁してほしいわね」
姉妹が服の下からチラリと垣間見せるのは、固有魔術を偽るための、固有魔術を再現できる魔石だ。
レフレーズの持つ鈍色のものが重力系、エロイーズの持つ金色のものが雷霆系の固有魔術を内包している。
三人のファントムマスクについている認識阻害の青い魔石と同じく、姉妹の
「お前らの親戚には世話になりっぱなしだな。なにか礼をしてぇとこだが」
「えっ……!? この『固有魔石を精製する固有魔術』を持ってる子、まだ十一歳の子猫ちゃんなのよ……!? 夜毎性的な奉仕する相手としてはちょっと……ヒョード最低……」
「どうしてそういう発想になるのでしょうか、僕にはわからないです」
「その丁重な反応やめてくれる!?」
「普通にお菓子とかあげたら喜ぶかなー」
「ちょっとお姉ちゃん……わたしだけ下ネタを言ってたら、わたしだけ変態みたいになるじゃない……!?」
「いちおう変態の自覚はあるんだな」
「うっ……も、もっと言って、ヒョード。もっと罵って……ハァ、ハァ」
「エロイーズ、せめて街頭で発情するのはやめてくれ」
なんとか賢者タイムに至ったエロイーズは、いい感じの表情でいい感じのことを言う。
「わたしたちにしてくれたみたく、宝石とかをくれるってのもいいけどさ……あんたの場合、ピンチのときに颯爽と駆けつけるっていうのがあるでしょ」
「おー、それいいな。ほんとにそうなったら、そんとき先方の住所教えてくれよ。間に合うかわかんねぇが、全力疾走してみるからよ」
にっこり頷く姉妹だったが、その顔がなぜか徐々に曇っていく。
「いや、ダメかも……あそこん
「えぇ……あ、そうか、種族が同じだから……なるほどね?」
「ちょっと待ってヒョーちゃん、ドエロなのはわたしたちチューベローズ姉妹だけだからー! あそこん
「お前らも今からでも健全で純粋な女に戻ってくれねぇかな」
「無理ー」「わたしたちはエロいから」
「なんでそこそんな自信持ってんだよ」
しかしそれはそれとして念を入れて回避したからこそ、後になって気になってくる。
実際あのおっさんは何者だったんだろう?
「おやおや、嫌われてしまったみたいだ」
心にもない嘆きで肩を竦めてみせる、鹿撃ち帽の男の後ろから、ジェラート片手に若い女が現れて言う。
「素性を明かせばよかったんすよ、師匠。特にあの男の子なんて、師匠のことを大好きみたいじゃないっすか」
寝癖のようにボサボサな薄茶色の髪を大量のヘアピンで無理矢理まとめ、ダンテンと同じく鹿撃ち帽を被っている。
半袖半ズボンに蝶ネクタイの彼女は名をティコレット。飢えて野垂れ死にかけていたところをたまたま拾っただけなのだが、ダンテンに懐き、勝手に助手を名乗ってついてきている。
といっても、そもそもダンテンの探偵というのが自称なので、その助手を自称したいなら、いくらでもしてくれていいのだが。
もっと言うと「ダンテン・ハエーナ」もそうだし、二十年ほど前に使っていた「ドロテホ・キヨーテ」も偽名である。
「君の憧れる伝説の男が今目の前にいるよってかい? それこそ下手なナンパじゃないか」
「仕事じゃなきゃ宿に連れ込めたのに残念っすよね。胸板にサインしてあげられたのにね」
「なぜ僕が少年性愛な設定で喋っているんだ。男の子を宿に連れ込んでどうするってのさ」
「そらもう存在しない穴にブチ込むんすよ」
「急に概念的な話になって怖いんだけど」
冗談はさておき、ティコレットの方から真面目な仕事の話に切り替えてくれる。
「首尾よく〈
「まぁね」
探偵としてのにこやかな表情の裏から、かつての大泥棒としての酷薄な笑みを覗かせる男。
「市井に真っ当な職を得たのは、せっかく逃げ果せた官憲の手に、二度と迫られたくないからさ。より合理的に行こう。僕は別に足を洗ったつもりはないし、当時とやることは同じだよ。ただ体裁を整えるってだけでね」
大泥棒ドロテホは悪党だけを狙うゆえに義賊扱いされていた……それ自体は的外れではない。
ただその真骨頂が「泥棒狩りの泥棒」、すなわち同業からの横取りにこそあるというだけで。
「今、この街で一番の泥棒は怪盗〈
「ひどいっすねー。自分のファンボーイ相手に容赦なさすぎっす」
「でも僕のそんなところが?」
「だからこそ好き♡」
ティコレットに差し出されたジェラートを、勢い余って顔面にぶつけられても、ダンテンの笑みは翳らない。
怪盗くんには悪いけど、最後に勝つのは自分だと、実力差で決まっているのだから。
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