第4話 輝く夜の巫女

 ナゴン・バルザッシュはゾーラ市内某所にある水煙草屋〈紫紺の霧〉を経営する二十歳の女だ。濡れたような質感の長い黒髪ときめ細やかな肌を、この大陸の魔族とはまた異なる魅力があると褒められることが多い。

 彼女は母方に極東のサトリという妖怪の血を引いている。その種族には他者の思考を擬似的な聴覚として感知する……いわゆる「心の声」を捉えるという能力がある。


 言い寄る男の性根を見極めるのにも便利だが、仕事……特に裏の副業にも役に立っている。

 ちょうど今、開店時刻になったばかりの彼女の城に、恰幅の良い客が入ってきたところだった。


「いらっしゃぁい。なににしますぅ?」


 いつものように甘い息(これは彼女も普段から水煙草を愛用しているためで、本当に匂いが甘い)を気怠く吐くナゴンだったが、相手が入ってきた時点でわかっているので、質問ではなく挨拶に近い。

 客の狙いは水煙草でもなければナゴンでもない。邪念のない眼でまっすぐにナゴンを見つめ、ほとんど事務的に注文した。


「オレンジ、ローズ、シナモン、クローブ」


 驚いたふりをするために一拍置いてから答えるナゴン。


「要らぬ説教になっちまうかもしれないけど、水煙草は普通フレーバーを多くても三種類までしか混ぜないんですよねぇ。そんなに複雑だと味わいがバラけちまうと思うんですよぉ」

「構わん。複雑なら複雑なほどいい」


 頑として言い張る客に対して、ナゴンは冷静にガラス器具を用意しながら応じる。


「それならそれで配合いたしますんで、楽しんでってくださいな。お席の方はどうします?」

「できれば一人で楽しみたい」


 話がスムーズに通りすぎないようにというだけの意図でまた間を空け、ナゴンは客に反問する。


「ええとねぇ、当店は個室で吸っていただくことはできないんですよぉ。二階にいくつかね、『休憩室』はございますけど、まぁなんといいますか、お察しの通りの用途しかないんですぅ。お連れ様がいらっしゃるようでもないようですし、なおのこと他のお客様とのご歓談でもお楽しみいただけたらと思うんですがねぇ」


 客はにわかに押し黙る。そう、最後は「無言」なのだ。今さらだがこの一連の符牒、どこから正確に聞き及ぶものなのだろう。裏の客には裏の客のネットワークでもあるのだろうか。

 いずれにせよナゴンのやることは一つだ。店内の薄暗い物陰に潜んでいる、この店の用心棒にして彼女の弟を、いかにも機嫌を損ねたような芝居を打ちながら呼びつける。


「ガルサ! アンタに客だよ! 裏でじっくり話がしたいんだとさ!」

「……ほぉ。良い度胸だ、久々だな」


 おもむろに立ち上がり近づいてきたのは、黄土色の髪に菫色の眼、真夏以外は年中着けている黒いニット帽に赤い上着がトレードマークの、目つきの悪い筋肉質な男だ。

 ガルサは客を正面から見据えると、わざとらしく周囲を見回し、背後を親指で差して客を促した。


「ここじゃ他の客に迷惑がかかる……大人しくついてきてもらおうか」

「ああ、望むところだ」


 弟に連れられ店の奥へ引っ込む客を、ナゴンは手をヒラヒラ振って見送った。

 というわけで、


 客「(なんでもいいので四種類のフレーバーで注文)」

 ナゴン「(本当に普通に四種類のフレーバーで注文しているだけの可能性もあるので説明)」

 客「構わん。複雑なら複雑なほどいい」

 ナゴン「(席はどうするか尋ねる)」

 客「できれば一人で楽しみたい」

 ナゴン「(説明し丁重にお断り)」

 客「(無言)」


 というやり取りがワンセットで合言葉になっているのだが、最終的に客もナゴンも互いに機嫌を損ねたような感じにして用心棒にシメさせるような流れも含めて、こうやって無駄に複雑にしているのには主に他の一般客に勘付かれないようにという狙いがある。

 裏の客として二階の応接室に招いていることだけではない。読心能力自体がこの魔族時代であっても珍しく、姉弟揃って持っているというのはあまり不特定多数に知られて嬉しいものではない。


 したがってナゴンからガルサにパスするのは単純に二重確認という意味もなくはない。そしてナゴンに言い寄った、良からぬ妄想を抱いて近寄ったなどの理由で本当にガルサにシメられて裏口から放り出され、客が裏路地に倒れているということもたまにあるので、この偽装にも一定の信憑性は既存する。

 ただ二階に通された上でシメられて窓から放り出されるというパターンもなくはない。特に今回の客は……どうなるだろうね? とナゴンはいささか楽しみですらあった。


 しかしそんな彼女の気分は一瞬で塗り替えられる。


「すみません。今の彼と同じものを注文したいんですが」


 この店は教会の上の方の連中もちょくちょく贔屓にし、その縁でなにかと便宜を図ったりもしてくれているのだが、飼い犬の鎖をいつでも引き絞れるわけではないようだ。

 甘い煙を楽しみに来ましたという表情ではない、黒い制服に身を包んだ祓魔官エクソシストの男女二人組の姿を見て、ナゴンはこの日初めて憂鬱由来のため息を吐いた。




 ヒョードが最初に仲良くなったのは弟のガルサの方で、その縁やらなんやかんやあって姉のナゴンが取り仕切る水煙草屋の二階……甘い香りで良い雰囲気になった男女の客がアレする用の『休憩室』の一つを、住まいとして利用させてもらうばかりか、応接室を怪盗〈亡霊ファントム〉のビジネススペースとして使わせてもらっている。

 もちろん好意に甘えての無償というわけではない。宿として見れば格安ではあるが家賃を払っているし、用心棒の手が足りない際はガルサを手伝う。たまに店の仕事自体の手伝いもやる。エロイーズやレフレーズと一緒に〈紫紺の霧〉をさりげなく宣伝したりもしている。そして依頼による盗みの報酬が現金だった場合、その二割を仲介料として納めている。


 法外とも搾取とも思わない。ヒョードにとっては「場」を持てるというだけで充分破格だ。

 たとえ周りの『休憩室』から壁越しに聞こえてくるアレの声や音がクソうるさくても、応接室は応接室である。


「わりぃな、落ちつかねぇだろ」

「言うまでもなく」

「たまにいるんだ、ここまで嗅ぎつけちまう奴がよ。なんで通しちまったのかね、あの姉弟。耳が鈍ってんのか?」


 全身タイツに赤いマフラー、ファントムマスクという〈亡霊ファントム〉としての装束で出迎えるヒョードの前に現れたのは、誰あろう先日見知ったばかりの顔、事業が傾いている真っ最中だというカネモッテーラその人だった。

 しかしその顔は殊の外穏やかで、優雅に指を組んでソファに腰掛けている成金。


「勘違いするなよ。指輪を取り返しにきたわけでも、ましてや報復に訪れたわけでもないぞ。貴様の手腕は嫌というほど思い知らせされた。だから今度は私が貴様の客になるだけだ」


 筋道は通っているといえば通っている。ヒョードがこいつをあまり好きじゃないという感情より、バルザッシュ姉弟の読心精度を信用すべきだというのはわかる。


「別に構わねぇが、標的に見合う報酬は払えるんだろうな?」

「まだ家に財は残っている。必要なら売り払えばいい」

「……あんた自棄になってねぇか? 間接的とはいえ破滅願望に付き合わされるのは御免だぜ」

「誰のせいだと思っている?」

「やっぱ恨んでんじゃねぇか」

「当たり前だ、恨んではいる。だがそれ以上に欲しいものがあるというだけだ。これさえ手に入れば世界を獲ったも同然と言えるものが」

「実在すら不確かな伝説上のお宝とかじゃねぇだろうな?」

「鋭い。ある意味ではそうだ」


 絶対めんどくせぇなと確信しつつも、話の続きを聞かずにはいられないヒョード。

 怪盗はロマンを求める。そして目の前の男からは一週間前にはなかった、ロマンの気配が立ち上っていた。


 その源泉と思しき呼称を、カネモッテーラは口にする。


「〈輝く夜の巫女〉という名を、聞いたことはあるか?」

「いや」


 かぶりを振るヒョードに、カネモッテーラはまるで浮ついた様子もなく、端的に概要を説明する。


「彼女に対して今、求婚する者が五人いるが、そのうちの一人が私だ」

「あんたのことだから、どうせ権威を得るためとかなんだろう」

「その通り。しかして彼女は我々五人それぞれに対し、話にのみ伝え聞く世に珍しき宝の入手を課した。それを成した者と婚姻の契りを結ぶとの主旨だ」

「……それを俺に代行しろと?」

「彼女が言うには、配下にそれを達成させてもいいし、しかるべき専門家に依頼してもいい。とにかく彼女の前に望みの品を持ってくる力のある者を、彼女の伴侶とするとの仰せだ」

「そりゃまたずいぶん性格が悪いわりに、柔軟というか……まぁ、いいけどよ。引き受けた。やるよ。期限はいつまでだ?」


 ヒョードの二つ返事に、カネモッテーラはずいぶん面食らったようで、目を白黒させながら訊き返してくる。


「期限はない……いや、待て。まだなにを手に入れなければならないかを話していないが」

「いいさ、後で聞くとも。それより俄然興味が湧いてきた。『難題を達成した者』じゃねぇってことは、どうせできねぇとタカを括ってるってこったろ。その性悪高飛車女が、この俺の芸術的手腕を目の当たりにして度肝を抜かれ、あまつさえよりによってクソデブ凋落成金野郎と結婚させられる羽目になったときのツラを一目拝みたくなった。なんならそれが報酬でもいいぜ」


 カネモッテーラは怒るでもなく、穏やかに微笑んで反駁する。


「この私と結婚できる女の栄誉を、怪盗風情が理解できないのは仕方ないが」

「まぁそこは百歩譲っていいとしよう」

「〈輝く夜の巫女〉の性格が最悪だというのは全力で同意する。まだ会ってもいないのによくわかったな」

「だよね!」


 変なところで意気投合してしまった。

 しかしこの依頼が楽しそうだというのも本当なのだ。

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