第2話 追う者を魅せるのも怪盗の仕事だぜ

 最初に硬直から立ち直ったのは、他でもないカネモッテーラだった。

 巨体を揺らして口角泡を飛ばし、警備の兵に指示を出す。


「引っ捕えろ!!」


 怪盗〈亡霊ファントム〉は一瞬で囲まれ、屈強な肉弾の渦に呑まれた……かに見えた。


 奴が〈亡霊ファントム〉を名乗り始めたのは犯行が知れ渡り、市井で他称されたのを受け入れる形だった。

 奴が〈亡霊ファントム〉と呼ばれるのは、欺瞞や幻影を操るゆえではない。


 ただ、。気づけば姿を消している、その圧倒的な機動力ゆえ、捉えられない幽体のごとき怪奇と讃えられ、畏れられるためである。


 一斉に襲い掛かった警備兵たち、そのほんのわずかな隙間を、〈亡霊ファントム〉は液体であるかのようにぬるぬるとすり抜け、鍛え抜かれた本職の戦闘屋(しかもいちおう戦闘民族の出身)であるセルゲイでもギリギリ目で追えるレベルのスピードで、あっという間に広間を横切っていく。


『自意識過剰』に向かう奴の進路上にはカネモッテーラが立ちはだかっているが、曲がりなりにも一般市民である彼に対処させるわけにはいかない。

 しかしやはりセルゲイは彼の心証を上向けることはできないようで、アズロラの方が反応が早かった。


「お゛ぉ゛ん゛!!!」


 彼女が一声吼え猛るだけで、それを食らった怪盗は、三半規管を狂わされ、ほんの一瞬だが失速した。

 ややこしいのだがそれは正確には彼女の声帯から発せられたものではなく、彼女が肺に持つ固有の息吹、魔力を直接音に変換する音響息吹ヴォイスブレスの作用である。


 相棒の牽制に続き、自らも息吹での攻撃を仕掛けようとしたセルゲイだったが……それ以上〈亡霊ファントム〉への追い打ちは許されなかった。


「ぐぶっ!?」


 どうやら呼吸を読まれたようで、いきなり顔にかかってきた金色の粘液を、鼻から飲む形になったセルゲイ。

 なんとか肺を膨らませ、自慢の疾風息吹ゲイルブレスで窒息の原因を吹き飛ばすと、視界に一人……いや、二人増えている。


 わかってはいた。怪盗〈亡霊ファントム〉には仲間がいる。だがこの二人は来るときと来ないときがまちまちで、来れば意表を突かれるし、来なければ無駄に警戒させられる。

 猫系獣人特有の気まぐれも、ことこの二人に限っては、警備や捜査の手すら惑わす魔性となる。


 いずれもやや癖のある桃色の髪、垣間見える眼はいずれも青玉色で、おそらく姉妹と思われる。

 格好も〈亡霊ファントム〉と同じく、全身タイツにファントムマスク、ここまでいくともはや格好良くすら思えてくるから不思議だ。


 推定姉妹の背が低く髪をお洒落に編み込んでいる方……おそらく妹の方の女が、セルゲイの顔に甘い汁をぶっ掛けた。というかこれは独特の匂いと風味からして、蜂蜜だ。おそらく錬成系だろうが、珍しい固有魔術を持っている。


 そして同時にアズロラは、姉の方と思われる背が高く長い髪を靡かせる女の手から、白い液体を被っていた。アズロラの方も吸気のタイミングに合わされたらしく、一定量を飲んでしまったようだ。

 乳と蜜……というと聖典では大きな意味を持つが、まったくの偶然だろう。今考えるべきは象徴面の属性ではない。まさか、という閃きがセルゲイの脳裏に過る。


 流動物を操る魔術などいくらでもある。主に水瀑系から錬成系にかけて、水、沼、泥、土、砂といったところか。その中でなぜ「乳」と「蜜」なのか? もしそれが彼女たち自身の体液から錬成されたもので、彼女たちがなら……まずい! という懸念も時すでに遅し。


「おげぇっ……!?」


 アズロラは即座に苦悶の表情を見せて嘔吐した。単なる乳糖不耐症ではない。胃壁を研磨される拷問を受けて喀血したのだ。

 やはりこの女たち、だ。幼馴染の心配へ向かう自らの視線を律し、セルゲイは無理矢理顔を〈亡霊ファントム〉の方へ向ける。


 ほんの数瞬の余所見の間に、奴はカネモッテーラと正面から交錯するに至っていた。肥満体に似合わない機敏さで拳を振るう成金に対し、自然体で立ち向かう怪盗は……なにごともなくすれ違い、名画『自意識過剰』へ一直線。


 と思われたがすぐに立ち止まり、振り向いたカネモッテーラとその後ろのセルゲイに、満面の笑みで右手を見せてくる。


「「あっ!?」」


 同時に叫んだセルゲイとカネモッテーラは、同時にカネモッテーラの両手の指を確かめる。両手の中指に嵌まっていた、一番デカい宝石をあしらった指輪二つが、目にも止まらぬ早業で抜かれ、盗人の手に収められている!


「ちょっとばかり鯖臭ぇが……あんたの『自意識』、確かに頂いたぜ!」

「なっ、おま、そ……はぁぁぁ!!?」


 予告されたと思われた絵画に見向きもされず、黒ずんだ指輪二つで満足されて、勝手に退却されつつある現状に、その意図に、しかしカネモッテーラはセルゲイには及ばない領域で理解に至ったようで、にわかに瞠目、絶叫する。


「あ、あの賊を逃がすな! おい教会の犬ども、こういう場面くらい役に立てよ! なんのために居合わせたんだ!?」


 まったくその通りでしかない。屋敷の警備兵は全員〈亡霊ファントム〉と山猫姉妹に伸され、アズロラは魔族の再生能力込みでも結構キツい内部損傷を負っている。

 脂汗を流してうずくまる相棒の背中に優しく手を置きながら、セルゲイはカネモッテーラの要請に応えた。


「御意!」


 泥棒猫の三人は、とうに窓から去った後。

 だがまだ奴らの背中は追いきれない距離にはない。


 セルゲイはカネモッテーラ邸のベランダから疾駆、跳躍する。ゾーラの街は教会の庭だ、新米祓魔官であるセルゲイでも、土地勘はすでにある程度鍛えている。それになにより……。


「奇遇だな」


 ものの数秒で追いついた背中へ、セルゲイは気さくさを装って話しかける。


「俺の内部循環も身体能力向上タイプなんだ。しかもご覧の通り、スピード系の」


 もちろん驚いてほしかった。あわよくば歩調を乱して失速し、転んで捕まってほしかった。だが〈亡霊ファントム〉は一瞥すら寄越さず、垣間見せた横顔で微笑む口元が言い置く。


「奇遇だな。俺は素の健脚で、てめぇより千倍速ぇ。追いつけるもん な  ら」


 風が唸る。開けているだけで眼が乾く。もう言葉どころか息さえ吐けない速度領域のはずだが、怪盗〈亡霊ファントム〉は余裕で煽り文句を残しつつ、彗星のごとく駆け消えた。



「追い  て   み     –––––––– 」



「ハァ、ハァ……くそっ」


 ついに立ち止まり、無様に息を切らして膝から崩れ落ちるセルゲイ。結局ヤツの憎らしい声を、最後まで聞き届けることすらできなかった。


「また逃げられたか……怪盗〈亡霊ファントム〉……次こそはお前を、この俺が、捕まえてみせる……!」


 任務は大失敗、この後は相棒を抱えて上司に叱られに帰り、始末書を書いて、おまけにこの任務続行の嘆願までする必要がある。

 しかしなぜかセルゲイの頬は緩み、心を支配するのは高揚感だった。

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