第20話 引っ越しは大騒ぎ

 引っ越しまで後三週間。カウントダウンが始まる。

 母親が命より大事にしていた着物をすべてビニール袋に入れて丸ごと捨てる。

 今はネットで着物買取をしているが当時は無かった。大柄な姉では小柄な母の着物は直すことすらできない。

 物凄くもったいないが仕方がない。

 大きなダンボール箱2つにぎっちりと詰まっていた買い物で貰うビニール袋も捨てる。昭和初期年代の人は物を絶対に捨てられない。

 こういったものを収納する空間の方が高くつくのだが、それは決して認めなかった。

 もう物を貯める趣味と捉えて諦めるしかない。


 大忙しの中、前に話したK主任による眼底出血事件が起きて、一週間を入院することになる。大事な時間がごっそりと消える。

 後一週間、部屋の片づけは間に合わない。

 明日から二日ほど休ませてくれとK主任に頼みこむ。

 返事は・・。

「毎日遅くまで残業して時間を作ってそれで休むなら良い」

 このアホウを殴ろうかと思った。誰のためにこんな羽目に陥ったと思っとんじゃい。

「引っ越しのために部屋を片付ける時間が必要だから休むと言っている。残業したら帰ってから片付ける時間が無くなるから意味がないでしょうが!」

 K主任は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。この理屈が理解できていないのだ。

 恐らくこの人は一音節以上の言葉が理解できない。


 そこに姉からいきなり電話がかかってきた。

「歯を直すのよ。50万円なんとかならない?」

 歯どころかこっちはお金がなくて生きるか死ぬかの境目なのですが。姉への二百万円に手をつけるほど困窮している自分がどうしてそんな金をポンと出せると思うのだろう。

 ああ、と納得した。

 つまり姉は私が金を渡さないのは金が無いからではなく、金はあるけど吝嗇で渡さないのだと考えているのだ。

 これまで私がそのような行動を取ったことは一度もないのに。

 あなたのダメ息子の面倒を見たときだって、他の人間は漏れなくお金を請求したのに、私は請求するどころか身銭を切ってやったでしょう。それすらも理解していない?

 人は他人の生き様など決して見はしない。自分が見たいものだけを見る。そして大概が他人の行動を貶めて解釈する。そうしないと自分のエゴが傷つくから。


「二十万だけなら」

 泣く泣く振り込んだ。

 またもや残り金がデッドゾーンへと近づく。

 部屋の向こうに逃げていた首吊りロープがまたもや近づく。引っ越し先で後何か一つでも起きたら、それは私の首の周りに巻き付くことになる。


 睡眠時間を削って部屋の片づけを続ける。

 一つの部屋を丸々倉庫にしないといけなかったほどに母親は物を溜め込んでいる。そのほとんどは単純にゴミだ。

 これでも前の引っ越しで相当捨てたのにだ。

 ひたすらに焦る。


 ついに引っ越し当日が来た。

 部屋を見た引っ越しの人が一言。

「ここまで準備ができていないのは初めてだ」

 確かにその通り。

 私が受けた苦労を是非ともこの人にも味わって欲しい。

 それで心が折れないかどうかを私は確かめたい。


 飲み屋での知り合いを通じて頼んだ引っ越しだったので、当然その人も作業に来ている。

 絨毯を指さして言う。

「絨毯だけは捨てるのに手間がかかるから別料金です」

 一万五千円をその場で払った。

 すると彼は目の前で絨毯を折り畳み、固めた。

「30センチ四方に固めればそのまま捨てられるんだよね」

 友達になれるかも知れないと思っていたのに。

 小遣い稼ぎはまだよい。それを私の目の前でやってマウントを取るのが許せない。

 お前はこうして騙されるほど馬鹿なんだよと言う意味である。

 自分がたったいま知り合いを騙して小銭を稼ぐクソ野郎の位置にまで信用を落としたのだと気付いているのか?

 こんなことで生涯にわたる敵を作っても仕方ないだろうに。

 それでお前のいったい何かが満足するというのか?

 私には理解できない。それともその場で何か硬いものを彼の頭にぶつけるべきだったのだろうか。

 それもいいな。きっと胸がすっとするだろう。

 そして人生も終わる。


 何が起きているのか分からず興奮状態のアメショー猫をケースに入れて電車で引っ越し先へ。

 秋葉原についた。ここで乗り換えだ。

 暑さで猫が心配だったので奮発してタクシーを使うことにする。

 駅を一歩でた所で固まった。

 まぶしくて何も見えないのだ。タクシーなのか普通の乗用車なのか判別ができない。手術で目の調節機能の大部分が失われている。

 しばらく盲人の気分を味わいながら、ようやくタクシーを捕まえる。

 やがて引っ越しのトラックも到着し、そこで中を見た作業員の人が言った一言が。

「狭っ!」


 荷物は二つの部屋を埋め尽くした。

 それを楽しんだのは猫だけだ。天井まで積み上がったダンボール箱を登って降りて楽しむ。

 これからこれをすべて片付けねばならない。でなければダンボールの上で寝ることになる。

 頼むから誰か俺を殺してくれ。

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