第10話 ボロ船で荒海へ

 貯金通帳を見るのが苦痛だ。

 長い間払い続けてきた年金が相当溜まっているはずなのに65歳にならないと受け取ることはできない。

 この点では貯金の方が遥かによい。自分がこのまま死ねば、払った年金はすべて国にタダ取りされると考えると腸が煮えくり返る。

 母が生涯かけて払って来た年金もすべてタダ取りされているのだ。



 電話がかかってきた。

 受けると知らない会社からだ。

「ホームページをみまして」

 中年男の声が聞こえた。頭の中に小柄で貧相な男の顔が浮かぶ。

 今派遣技術者を募集している。

 ほう? これはもしや渡りに船か?

「ぜひウチに来て欲しいんです」

 色々話をした後に肝心な所に差し掛かる。

「実はウチは下請けの下請けで、月に40万しかだせないんですが」

 フルで詰めかけて人件費40万円。つまり給料で言えば月20のボーナス無しに相当する。技術者の給与としては右も左も分からない新人並みの金額である。

「それでもよければ是非とも面接を・・」

 相手は電話の向こうで含み笑いをした。

 この痩せ犬が。さあ投げられたエサに飛びつけ。

 そう頭の中に響いた。

「その条件ではとてもとても。ではこれにて失礼いたします」

 そう言って思わず電話を切ってしまった。

 俺はバカだ。唯一の命綱だったのかもしれないのに。

 後で後悔した。


 今度は以前にG社との仲介をお願いしたP社のM社長から電話があった。

「いま三つほど仕事があるけど」

 天の助けとはこのことだ。

 M社長は案件を述べる。どこも遠い。だが厚木の会社の仕事ならば行き帰りの電車が空くので通勤も楽だ。内容は3D用のソフトだ。3Dなら多少は触ったこともある。

「ではこの会社をお願いできますか?」

「遠いけどね。まあ何なら向こうに引っ越せばいいしな」

「いやそれは。引っ越し代考えるとやはり通いになります」

 6カ月の仕事だ。引っ越しには最低でも50万円はとぶ。つまり引っ越せば引っ越し代だけで儲けがすべて飛ぶ。それではただ苦労して時間を消費しただけになり意味がない。

「初めての人間には3Dは無理だ」

 急に相手のM社長の論調が変わった。

 いや、それなら何で紹介すると言い出したの?

 それに言わせて貰えば、『たかが』3Dですぜ。

「秋葉原のウチの作業場に仕事があるからそれをやれ」

 へ? 秋葉原だと片道は1時間半。電車でも車酔いしかねない距離だ。しかも行き帰りが必ず満員電車になる。

「自宅作業でいいですか?」

 以前この人がウチに来て家を下見されたことがある。そのときにここなら外から見えないので作業場にできるななどと言っていた。それを思い出したのだ。

「いや、秋葉原まで通え」

 え~。何か話が違いますが。

 そこでいきなり切れられた。ガタガタ言わずにやれと怒鳴られる。

 へいへい、でお給金は。

「月45」

 耳を疑った。私が腕の良い熟練技術者であることは知っているはずだ。それを考えれば、この金額は不当に低い。

 私は義理を重んじる。恩を受けた場合にはそれをかならず数倍にして返す。その証拠に母の香典もすべて三倍返ししている。

 もしこのとき標準の金額である月60を提示されていれば一生この人とこの会社のために粉骨砕身して働いていただろう。私はそういう人間だ。

 だがこれでは弱って苦しんでいるときに腕を捩じり上げられたようなものだ。

 ありていに言えば足下を見られたのである。

 ここまでの対話も仕事の話も、要は安く自分のところの仕事をさせるための方便だったということ。


 だがもう後がない。

 次の日から秋葉原まで通うことになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る