第7話 弱り目に祟り4
何か変だと思って熱を測ったら四十度ある。
私はこの熱でも普通に動けるので気づかなかった。
何かひどい風邪を引いたのかと思った。
大変に困る。ここでのんびりと病気している余裕はないのだ。
フリーランスが仕事を受けて一カ月仕事をした場合、その作業代金が入るのは三か月先だ。
作業期間一カ月~翌々月振り込みがほとんどなので、貯金が尽きる直前に仕事を貰っても破綻は避けられない。
早く治して仕事を探さなくては。
だがそんな思いを無視するように熱は落ちなかった。四十度のまま体温計の表示は落ちない。
ときおり強烈な寒気に捕らえられた。体が震えて止まらない。服を着こんでも止まらない。それも強烈な震えでカップを手に持つと中身がすべて零れてしまうレベルだ。
今までこんな状態になったことはない。
震えを止めるために火傷しそうな温度にした風呂に長い間浸かるという手段に出た。
10分も体を茹でているとようやく震えも収まり、脳卒中を起こす前に湯舟から這い出るという有様だ。
猫の世話をするのも青息吐息の有様だ。
宅配便を受け取るのに玄関に行くのに倒れながら五分もかかって這いずる。ようやくドアを開けると、足下にパジャマ姿で這いつくばる私の姿を見て、宅配便の人が目を丸くした。
これはもう駄目かもなと思った。
念のため、玄関の鍵を開けたままにしておき、携帯電話をネッドまで運んでおく。
高熱は十日続き、ついに動けなくなった。
前夜、隣の部屋に大きな黒い男が立ち、薄闇の中からこちらを見つめていた。行きつけのバーのマスターが心配して見に来たのかと思ったが、声をかける間もなく出ていってしまった。
朝日の中で自分が死にかけていることを理解した。
実はこのとき敗血症になっていたと後で判る。敗血症は血液に細菌が入り込む病気で、1時間毎に死亡率が7%上がる。残りの余裕は数時間しかなかったのである。
手元には電池が切れかけている携帯電話。一回だけは救助が呼べる。
生きるべきか、死ぬべきか。
生き延びても私にはもう何もない。このまま病気で死ねば、かけてある生命保険で姉への金は返せるだろう。
大人しく地味な子供であった私は、大きくなればどこかの会社で一生働き、小さな家庭を作り、子供たち数人に囲まれてそれなりの人生を送るのだと考えていた。
それが結局は友も妻も家庭もなく、ここで一人誰にも看取られずに死ぬ。
どこが悪かった?
他人に優しかったから?
真面目で努力家だったから?
自分の痛みより他人の痛みを気にしたから?
強欲を戒めて生きたから?
天才だったから?
その結果がこれだ。
絶望の果ての死。
真摯な仏弟子だったが、もちろん仏様は助けてはくれない。信仰を持つ者に神仏はただひたすらに試練を与える。彼らは基本的にサディストなのだ。
死ぬのは簡単だ。この朦朧とした意識のまま眠りにつけば良い。それで二度と目は覚めない。
離れた所で猫が見ている。
ここ数日はまともに世話をしてもらえず、ドライフードしかもらえていない。
病人が嫌いな猫だった。あれほど母べったりだった子が、病気になると傍に近寄りもしなかった。今も私の手の届く所には近づいてこない。
この子は姉が面倒を見てくれるだろう。死ぬ前に姉に頼んでおかねば。
いや、この子は気難しい子だ。最後まで姉に懐かない可能性がある。
仕方がない。
決心して119番に電話を掛ける。
症状を伝え、住所を伝え、救助を求める。
「でもこれ、携帯ですよね」
受付の人は電話の向こうでとんでもないことを言いだした。
イタズラ電話だと決めつけて来たのだ。これで電話を切られたら私は死ぬことになる。
「固定電話はあるけどそこまで行けないんです。体が動かないんです」
電話が切れた。
病人は元気でハキハキとした声で喋ってはいけない。どんな人生を歩むかは演技力で決まる。
さて、救急車は来るだろうか?
運を天に任せて待つ。
やがてドアがノックされた。続けて携帯電話が鳴る。
出てみた。
「いまドアの前です」
「鍵は開いてます。一番奥の部屋です」
鍵は開けてあると最初の電話で伝えておいたのだが、何も伝わっていない。間抜けを大事な電話の担当にしてはいけない理由がよく分かる。
救急隊の人たちがなだれ込んできて、動けない私をシーツ丸ごとで運び出してくれる。
汚れたシーツはそのまま破棄された。
病院に運ばれ、裸にされ、しばらく診察され、とりあえず抗生物質を点滴されて寝かされる。
いきなり静かになった。
死にかけの携帯電話を使い、いきつけのバーのサブマスターにネコのことを頼む。
看護婦さんがやってきて緊急連絡先を聞くので広島の姉の電話番号を伝える。
「でも姉は老人でしかも胃を切っているので旅は辛いので、緊急事態になるまでは呼ばないでください」
そう頼んでおいた。
自分が緊急事態そのものなのだとは気づかなかった。いつ突然死するかわからないのだ。
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