第16話

『俺の連絡先だ。君のも教えてくれ。次予約を取る時は、君に直接連絡する』

『でも……』

『――俺はもう、とと屋の料理も君も忘れられそうにないんだ。ちゃんと責任、とってくれるだろ?』


 きっとすぐ連絡するから。






(……………とか言って、全然連絡来ないんですけど!)


 ばふっと枕に携帯を投げつけた七緒は、鼻息荒く布団に潜り込んだ。

 あの一件から一ヶ月。

 恭弥からの連絡は、まだ一度もない。


(あーもー、やめやめ!!!)


 七緒は部屋の片隅にあるミニサイズの冷蔵庫から缶酎ハイを取り出すと、カシュっと音を立ててプルタブを引いた。

 「とと屋」からほど近い小さなマンションの一室に引っ越したのは、今から数年前のことになる。


(こんなことに頭を悩ませるなんて不毛すぎる!あの日のことは全部若様の気まぐれよ!!さっさと全部忘れましょう!!)


 七緒だって決して暇ではないのだ。

 なんせ、そろそろ尾道には秋が来る。11月初旬に行われる尾道に向けての準備が始まるのだ。

 ベッチャー祭とは、尾道市民俗文化財に指定されている奇祭である。

 面を付けた氏子たちと獅子が神輿とともに市の中心街を練り歩き、子どもを見つけると追い回すのだ。何が楽しいのかと問われれば甚だ疑問だが、祭りとは往往にしてそういうものだろう。

 「とと屋」はその奇祭にて、中心街で酒を振る舞う役目を担っている。もちろん報酬はしっかりもらっているが、かわりに「今年西日本で話題となった銘酒」を集めなければいけないという馬鹿みたいな課題が課せられている。


「昔は日本全国の〜、だったんだが、流石に骨が折れてな!俺の代でどうにか西日本に抑えてもらったのよ」


 父、勝己は誇らしげに言ったが、どうせなら広島市内くらいに収めてほしかったものだ。


 その時投げ捨てっぱなしだった携帯が震え、七緒は慌てて体を起こした。液晶に表示された「橙子」の文字を見て無意識に肩を落としたのは、決して何かを期待していたからじゃない。


「もしもし?」

『遅くに悪いわね〜。明日の藤尾酒造さんとの打ち合わせなんだけどね』

「あー、ベッチャー祭の一番人気ね。大丈夫、忘れてないよ。11時に福山でしょ?」

『それがどうも、予定が変わっちゃったみたいなのよねぇ』

「え!?」


 母の悠長な声に、七緒はぎょっと再び身体を起こした。


「えー!?だって、あっちの都合がつかないからってどうにか明日にしてもらったんでしょ?今からまた組み直したんじゃ祭りに間に合わないんじゃ……」

『どうにも、どうしても外せない別の用事が入っちゃったみたいなのよ』

「何なのよその予定って!」


 憤慨したまま尋ねた七緒は、橙子の応答にひゅっと息を呑む羽目になる。


『道後温泉の湯神祭ってあるでしょ? あそこの御神酒おみきに急遽選ばれちゃったらしいのよぉ』

「え」

『だから七緒、本当に申し訳ないんだけど、そこでなら少し話せるらしいから行ってきてくれる? 交通費も出してくれるそうだから』

「いや、あの、だってそれって」

『お願いねぇ〜』


 ぷつっ、と無情にも通話が切れた。

 呆然とする七緒の頭に浮かぶのは、かつて一度だけ物見遊山で行ったことのある道後の湯神祭。

 それは観光客にも大人気のイベントで、それを観るために日本各地から人が集まると聞いている――。中でも一番人気は、道後温泉を仕切る「若旦那衆」による鬼面神楽。

 特にここ数年の若旦那衆はメディアで「神世代」と持て囃されるほど顔面のレベルが高いらしく、今やアイドルに匹敵する人気を獲得しているという話だ。


 そんなところに自分一人で行ってみろ。

(…………いや無理すぎる。お母さんに言ってもらお)

 七緒はぞっと身震いして再度母の番号にリコールしたが、存外策士なあの母が応じるはずもない。

 七緒は再度呆然と、うんともすんとも言わない携帯電話を見つめ、その場にがっくりと項垂れた。


「………最悪だ」




**




「最悪です」


 ところ変わって、ネル アジュール 東京ベイ ホテルのフロント階では、鉄面皮も鉄面皮と化した薫が、腹話術さながらの口の動きで新人ベルマンを追い詰めていた。


「あなた研修はちゃんと受けたんでしょうね。お客様がエレベーターに乗り込む前に自分が駆け込むなど言語道断です」

「す、すみません、急いでいて人がいたのに気付かなくて」

「なお悪い。世が世なら死罪に匹敵します」

「いやいやしないですって!ほらー、あんたもダメだろ?ちゃんと周り見とかなきゃ。ホテルマンの目は前に四個、後ろに三個ってな!」

「う、うしろに二つじゃ……」

「ばっか、一個は好みの女の子発見用! ほら、元気出してお仕事お仕事〜!」


 ぱんぱん、と軽やかにベルマンの背中を叩いた日比野は、そのままにこにこと薫の腕を引いて裏口へ引っ込むと、今度は小声で薫に詰め寄った。


「何やってんすか〜!?最近のあんたピリピリ超えてビリビリだっつって営業の俺んとこに苦情来るんですけど!?」


 フロント裏は休憩室になっていたが、今は誰も使っていないらしい。

 つけっぱなしのテレビからは夜のニュースが流れている。


「……総支配人たるものホテルの細部まで目を行き届かせるのは当然でしょう。ピリピリもします」

「つって、社内の空気最悪にしてたら元も子もないですけどね」


 吐き捨てた日比野は、何も言わず黙り込んでいる薫に今度は心配そうな目を向ける。


「……でも、ほんとに最近変ですよ、薫さん。何かあったんスか?例えばあの、尾道の彼女のこととか」

「そんなものっ」


 顔を上げたまま目を見開いて動きを止めた薫。

 不審がった日比野が振り返れば、そこには大々的に催されたどこかの祭りの映像が映っていた。


「あー、あれ、松山のなんとかって祭り……。今年ももうすぐやるんすよね。あれがどうかしました?」

「………行きます」

「は!?え、ちょっ、か、薫さん!?行くってどこに、っていうか、い、今から!?」


 画面いっぱいに映し出された鬼面の神楽。その中心で、煌々とたかれる炎に照らし出されていたのは、紛れもなく彼女の手を引いた「あの男」の姿だった。

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