第15話
「さて。お義父さんの許可も得たことだし、あとは式場をどうするかだが」
「もうその話はいいわよ!」
真っ赤な顔で声を荒らげる七緒に、恭弥も冗談だと笑って返す。
結局あのあと酒宴好きの勝己に促されるまま恭弥と榊は「ごはん処」に引っ張り込まれ、どこから見ていたのか様子を伺っていたらしい昨夜の常連たちも乗り込んできて、昼間から飲めや歌えやの大騒ぎとなった。
「いえいえ、私はまだ仕事中ですから……」
と初めは恐縮するように遠慮していた榊だが、彼もまた恭弥に負けず劣らずの酒飲みだったらしい。
ぞろりと並ぶ広島の銘酒を見た途端目の色を変えた。
「では一献だけいただきましょうか」
そこからはもうご想像の通りである。
数時間後、べろべろになって気持ちよさそうに眠る勝己の横で、シラフ同然のけろりとした顔で代行を呼び始めた榊はさすがである。
「父もそんなに弱くないはずなんだけど」
「榊は高知の出だ。俺も酒はあいつに仕込まれた」
「なるほど」
と七緒は苦笑する。こんなに納得できる理由もない。
「なんにせよ、今日が休館日でよかったわ。あれじゃあもうお酒のアテすら作れないもの」
「勝己さんなら、酔って作るアテも美味いだろうな」
「お口が上手だこと」
「嘘は苦手なほうだ」
二人の間の空気は、これまでになく和やかだ。
夕焼けに染まる瀬戸内海を眺めながら、七緒は夏風に身を預けた。
ちらりと隣で涼む恭弥を見て、七緒はもう彼のことを目の敵にはできないだろうと、気付いていた。彼を知れば知るほど、そういう思いが消えていくのだから仕方ない。
「君を初めて見たのも、この場所だった」
唐突に、恭弥が言葉をこぼす。
「えっ?」
驚いて彼を見た。
羽織を風になびかせながら、恭弥は瞑目し、静かに口角を緩めている。
「あの時の俺は、とにかく身体が岩のように重くて、何をしても心はひどく冷め切って……だから、七緒のあの、魂の叫ぶような声を聞いて、あんなに胸が熱くなったんだ」
「叫ぶって……」
七緒は、みるみると自分の顔が染まっていくのが分かった。
この場所に移り住んで長いが、ここで叫んだことなどそうそうない。覚えがあるのは、薫に手ひどく振られてヤケになったあの日の記憶。
まさかそれを聞いている人がいたなんて、思いもしなかった。
「み、見てたの……」
「ああ」
「だって、あの時の私なんか、すごいぼろぼろで」
「俺もだったんだ」
七緒の手が、するりと恭弥に握られる。
恭弥の瞳には七緒を口説こうとする色気はもう乗っていなかった。かわりに、愛おしいものを見つめる時の眼差しがそこにはあった。
七緒は、もうその手を振り解けない。
「君が好きだ」
「………」
「応えられないならそれでもいい。ただ、想いを告げることだけは許してくれ」
真っ赤な顔で口を開閉させる七緒は、もとより返す言葉など持ち合わせていない。
「恭弥様」
榊の声に顔をあげる。どうやら通りに代行が到着したらしい。七緒の腕を離した恭弥は「今行く」と榊に返して身をひるがえした。
「………桐谷、さん!!」
気付けば七緒は声を発していた。
立ち止まって振り返る恭弥に、暫く迷ったのち、七緒はまっすぐ手を差し出した。何も言わずに握り返す恭弥に告げた。
「恋をする勇気は、正直まだ持てない。ごめんなさい」
「……いや。構わない」
「でも同志としてなら、私も自信を持って言いたい」
恭弥の手を強く握る。
「頑張って。負けないで」
言った直後、七緒の背には感動にも似た痺れが走った。
遠い誰かに寄りかかり、頼るのではない。
同じように足掻き、ひたむきに頑張る相手がいることは、こんなに心強いことを七緒は知らなかった。
驚きの眼差しを向ける恭弥に、七緒はふ、と微笑んでみせる。
「今度から海を見るたび、私はきっと、向こう側にいるあなたを思い浮かべる。そうやって力をもらうことにする」
「…………それは、口説いてるんだよな」
「ちがうわよ!」
「どっちでもいい」
微笑んだ恭弥が七緒の手を握り返し、くんと引き寄せた。
七緒の手の甲に恭弥の唇が触れる。
上目遣いに、恭弥が悪戯な目を七緒に向けた。
「なら俺も、瀬戸内の海を見るたび、君を想う」
「……!!」
「今度はうちにも遊びに来てくれよ。今はまだとと屋の足元にも及ばない、なんてことない宿だけどな」
七緒が声を上げる前にぱっと彼女を解放した恭弥は、ひらりと軽く手を振ると、榊と連れ立ってあっという間に坂の下へと消えてしまった。
頬を抑えながら赤くなる七緒は、ぶつける言葉を持て余したまま、やがて大きなため息をついた。
「……もう」
これだけされても怒りが湧かないのは、もうかなり絆されている証拠だろうか。
なんにせよ、恭弥の憂いも少しは晴れたらしい。
「今はまだ」と自分の旅館を語った彼の顔は、決してあの時のような悲観的なものではなかったから。
「さて、飲んだくれ親父たちを起こさないとね」
うんと伸びをして身をひるがえし「とと屋」ののれんをくぐった七緒は気付かなかった。
「………」
目の奥に確かな激情を燃やして佇む男が一人、抱えた花束と共に静かにその場を後にしたことを。
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