第14話
「とらないわ」
ぱしりと跳ね除けた手を、まじまじと見たのは恭弥だけではないだろう。
七緒はふん、と鼻を鳴らしながら、視線を横の榊に向けた。
「私の名前も調べてきたくらいだから、きっとうちの入れ込みも知ってるわよね」
「え、ええまあ……」
榊は咳払いして、
「たしか年間六千人ほどだったかと」
そう答えた。
七緒は頷く。
榊の言う通り「とと屋」の総客人数は年間七千人弱。年間数万人規模で受け入れている春灯亭やネル アジュールの足元にも及ばない。
しかし七緒には、その二施設よりも確実に優っていると自信を持って言えることが一つだけあった。
「じゃあ、うちのリピーター率は知ってる?」
榊はたじろいて押し黙った。
さすがにそこまで調べてくることはできなかったらしい。
リピーターとは、文字通り一度宿泊した客が再度宿を訪れることを言うのだ。宿泊業界ではこれがかなり大きな意味を持つ。
宣伝費用などのコストカットができることはもちろんだが、なにより、
――またここへ来たい。
そう思わせた人間の数が、明確にその数字に現れるのだから。
七緒は口角を上げ、はっきりといった。
「とと屋のリピーター率は、年間八割」
恭弥の目が大きく見開かれる。榊も「なんと……!」と口を開けて唖然としていた。春灯亭でも近年リピーターの呼び込みに力を入れていたが、それでも未だ
二割いくかどうかのところだ。
客室数の規模はさておき、その八割という数字が本物なら、この民宿は間違いなく「宿泊施設」としての著しい成功例である。
「とと屋にくるお客さんはみんな、渡り鳥なの」
七緒は大股で彼らの横を通り過ぎると、入り口の横に吊り下げられた空の鳥籠を持って戻り、それをカウンターの上に置いた。
中の鳥は逃げたのだろうなと、恭弥はなんとなく思っていたが、どうやらそれは空であることが正しいらしい。
愛おしげに、七緒はその籠を撫でた。
「荒波に揉まれて挫けそうになったり、羽を痛めたりするなかで、皆ここに雨風を凌ぎに帰ってくる」
恭弥はあることに気がついていた。
昨日、真剣に何かを書きつける七緒にちょっかいをかけた時、彼女が慌てて隠した分厚いノートがあった。
おそらくそこには、これまで泊まったすべての宿泊客の情報が記されていたのだろう。
手書きの文字で。
その客の出自や、趣味、好みの酒や、好みの味付け、話した内容はすべて。
「……そうか」
どこか力の抜けた思いで、恭弥は笑った。
小さな民宿だからきっと助けが必要だろうと、無意識に奢っていた自分に気がついたのだ。それは、彼女や、この民宿への侮辱以外の何でもない。
自分の手助けなどなくとも、ここはとっくに地に足をつけた商いをしていたのだから。
「……たしかに、この宿に俺では役不足だ。すまない。忘れていい」
「逆よ」
七緒は即座に否定した。
恭弥が口を閉ざしたのは、自分の頬に七緒の柔らかな手が触れたためだ。
七緒はまっすぐ、恭弥を見つめていた。
「あなたに教えを乞えば、この民宿はもっと高みを目指せるでしょうね。それこそあの――ネル アジュールと戦えるような、立派な宿になれる。だからこれは私のわがままなの」
七緒は穏やかに微笑んで言った。
媚びもへつらいもなく、労わるような素直な優しさに満ちた、それは紛れもなく「とと屋」の娘としての七緒の微笑みだった。
「そんなふうに寂しそうに笑うあなたのことを、今度はちゃんと、お客さんとして迎えてあげたくなった」
驚いて目を見開く恭弥の頬からぱっと手を離す。
七緒は恥ずかしげに視線を落とした。
「あなたが初っ端から口説いたりするから、いつも通りの接客ができなかったのよ。半分はあなたのせいですから」
「……それは、またここへ来てもいいと……?」
「まあ、いいでしょう。どうやらうちの民宿をどうこうしようという下心はないみたいですから、いて!」
「なぁにが、いいでしょう、だ!馬鹿娘!」
つんと顎を持ち上げて言い放った七緒の頭を、後ろからがしっと掴む人物がいた。ここへ訪れて初めて見た、前掛け姿の気風のいい男性。
「ぜひお越しくださいだろ、ったく生意気な!」
「ちょっと!やめてよお父さん!」
わしわしと暴れる娘の頭を撫でくりまわしながら、気持ちのいい笑顔が向けられる。
「いやあ、ごめんなさいね。こいつったらこないだ彼氏にフられてから前以上に捻くれもんになっちまって!」
「余計なこと言わないで!」
わあわあと喚く七緒をおざなりに遠のけながら、彼は親しみを込めて恭弥を見た。
「こう見えて私はねえ、昔築地で板前やってたんですよ」
「……ああ、だからか」
恭弥はつい大きく頷いた。
「絶品ばかり出てくると思いました」
「へへ。老舗の若旦那に褒められると気分がいいや」
七緒の父、勝己は言った。
裏でことの成り行きを伺っていたらしい。橙子もいつからか出てきて、カウンターのあちら側でニコニコとしている。
どうやら恭弥の話を聞いて、居てもたってもいられず出てきたらしかった。
「あの頃はね、俺も思うようなもんがつくれなくてヤキモキしてた。でもここへきてからは、随分のびのびとやらせてもらってる」
勝己はぽんと、軽やかに恭弥の肩を叩いた。
「あんたも事情がありそうだが、まずは自分とこで踏ん張ることだ。そんでいよいよ行くあてがなくなったら、今度はうちに婿入りしてくりゃいい!」
「お父さん!?」
「うちはいつでもウェルカムだからよ!まあこんなちっちぇ民宿だが!わははっ」
そう気前よく笑う店主の姿に、恭弥はかつての祖父の姿を重ねた。
頑張れよ、と強く押された背中が、思い出したように熱くなる。
「……ありがとうございます」
深々と頭を下げる。不思議と胸は、これまでになく透き通っていた。
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