第13話
「わしらもな、七緒ちゃんのことはこんな小さい頃からようけ知っとるじゃろ。じゃから分かるんじゃけどな、君の言っとることも。けど一つだけ言うとくな」
――あの若旦那、ほんまにイイ男じゃわ。
そう念押しして帰って行った最後の常連客を見送った七緒は、大きなため息をついてカウンターに突っ伏した。
(良い男って言ったって……)
ちらりと顔を上げる。
ダイニングスペースには、件の迷惑男――桐谷恭弥と、彼のとんでも発言を受けて転がるように「とと屋」にやってきた彼の部下、と思しきスーツ姿の男性がいる。
物々しい雰囲気を醸し出しているが、原因など明白だ。
彼の前には、桐の紋が入った紫檀色の羽織が丁寧に畳まれて差し出されていた。
「恭弥様」
重い口調で口を開いたのは、チャコールグレイのダークスーツをまとった一人の老人だった。
「もちろん、冗談でございましょうね」
「俺がこんな冗談を言うと思うか」
はっきりとした上下関係を窺わせる威圧的な声音は、七緒の知る桐谷恭弥とはまるで別人だ。七緒は思わずそっと腕を撫でたが、部下の反応を見る限り、こちらが彼の本来の姿なのだろう。
「ないから、こんなに頭を悩ませているのでしょうに」
魂が溢れ出そうな程に大きなため息をつき、老人、榊は眉間を揉む。
「急に数日の有給をもぎ取ったかと思えば、突然、当主を降りるなどと……。はぁ。恭弥様はこの榊の寿命が短くなっても構わないようだ」
「さてな。俺が居続けた方がお前の心労は多そうなものだが」
「否定はいたしませんとも」
はっきりと恨めしげに言った榊が「それでも当主不在よりはいくらかマシです」と続けた。
不意に立ち上がった彼がつま先を向けたのは、なんと七緒のいるカウンターである。いかめしい面立ちで近付いてくる小柄な老人に、七緒はついつい何歩か後ずさってしまう。
「古崎七緒様」
「は、はい」
どうやらここへ来る前に色々調べてきたらしい。一体どうやったら一民宿の娘の実名がバレるのかなど、七緒にはまったく見当もつかないが。
榊は言った。
「恭弥様と別れろとは申しません。ですがどうか、この方の職を奪うのだけはおやめくださいませ。お願い致します」
「あの……そもそも付き合ってませんから。ほとんど初対面ですし」
「誤魔化さなくて結構!ではあなたは、恭弥様がほとんど初対面の女性に求婚まがいなことをなさるとでも仰るのですか」
ぎろりと睨まれるが、事実そうなのだからどうしようもない。
榊は再度深いため息をついた。
「分かります、分かりますとも。恭弥様は道後の若旦那衆の中でも最も秀麗で家柄も良い。経営の才覚など誰が見ても一流です。彼が後ろ盾となってくれるだけで、こんなに心強いことはないでしょう。それは痛いほど分かります」
「……!」
七緒は、さあっと音が出そうなほどに青ざめていた。
しかしそれは、榊の言葉を受けたためではない。
(――……うそ)
七緒は、かつての自分の言動を顧みていた。
『薫さんって優しいし素敵だし、本当に自慢の恋人なの。東京まで会いに行くのだって、ちっとも苦じゃないんだから』
『それに薫さんがいれば「とと屋」はきっと大丈夫』
『いざとなったら、絶対彼が助けてくれる』
榊が例に挙げたそれは、一言一句違わず、かつて七緒が薫に抱いていた安心感そのものだった。なんの悪意もなしに。悪びれもせずに。当然のように、七緒だって薫をあてにしていた。
それが薫の抱いていた下心と、一体何と違うというのだろう。
「しかし彼を本当に引き抜かれては困るのですよ。恭弥様の才能が発揮されるのならば、それは春灯亭のためであるべきなのですから。彼の生い立ちを思えば、尚のこと……」
「だ、大丈夫です」
自分の浅ましさに打ちのめされながら、七緒はどうにか榊を見た。声にも表情にも、必死さのようなものが乗った。
「……私、桐谷さんのこと利用しようだなんて少しも――ほんのすこしだって、考えてませんから。そんな失礼でひどいこと、絶対に」
「俺を利用するのは、ひどいことか?」
榊を下がらせた恭弥が、ゆっくり七緒の前に立つ。
いつしか彼の肩には紫檀色の羽織がかかっていた。
鼻腔を掠めるのは、七緒がもう幾度も恭弥から感じた、あの白檀の香り。
「俺は今、君に自分を売り込んでるんだ」
「……売り……?」
「ああ――。
どうか俺を、君のそばにおいてくれないか、と」
七緒の手をとる恭弥の瞳は、彼女がまだ見たことのない強い光に染まっている。それが仕事に熱を込める時の彼の姿なのだと、気付くのはまだ先のことだ。
「君のためになら、和敬清寂の礼儀作法も、各地の老舗旅館に奉公に出た時に学んだ旅館経営の知識も、ノウハウも、全て包み隠さず話してもいい。それがこのとと屋に必要かどうかはさておきな」
「でも……」
「榊の言うことは気にしなくていい」
無意識に顔を曇らせた七緒に、すかさず恭弥は言葉を足した。
「今も昔も、俺はただあの家に飼い殺されてるだけだ」
その声に含まれるどこか寂しげな音に、七緒ははっと顔を上げる。恭弥は静かな笑みを湛えて彼女を見ていた。
「春灯亭に生涯を捧げる義理なんかどこにもない――。だから、七緒」
俺の手をとれ。
縋るような恭弥の手に、七緒も、気づけば手を伸ばしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます