第12話
「おはようございます。桐谷様。よく眠れましたか?」
「ああ。すこぶる」
「それはよかった。ご朝食です」
どん、と恭弥の目の前に音を立てて置かれた茶碗には、山盛りごはん。にこにこと笑顔は装っていたが、七緒はかなり立腹である。
(当然よ……! 昨夜のあのキスのこと、絶対に許さない)
本当はその場で突き飛ばして逃げてやりたかったが、いかんせん足がへろへろになってしまって、結局「とと屋」本館まで恭弥に送られる羽目になった。三十一にもなって、不甲斐ないにも程がある。
昨日は無言で別れてしまったので今日は絶対一言いってやろうと、朝方から七緒の闘気はみなぎっていた。
「驚いたな」
しかし、そんな彼女などよそに、恭弥はぽつりと口を開く。
寝癖やヒゲの剃り残しなど、朝から一切隙がないところも薫によく似てる。そんなことを頭の片隅で考えていた七緒は、あやうく手に持っていた水差しをひっくり返しかけた。
「君は怒っていても可愛い」
恭弥はまるで新鮮な驚きでも得たとばかりの口ぶりだが、それを聞いて只事ではなくなったのは七緒以外の人間だ。
(……こ、これは!)
ばっと馴染みの店の愛嬌のある看板娘を見る。
思いがけないストレートなセリフに、七緒は真っ赤になって金魚のように口をぱくぱくさせていた。
(――――春だ!!)
常連客たちの心は人知れず一つになった。
「お、お、お、奥さん!悪いんじゃけどな、こっちのテーブルに日本酒――なんでもええ、何か祝いの一杯……!」
「橙子さんこっちも!!」
「のう、あの兄ちゃん、ようけテレビ出とる奴に似とらんか」
「そういえばそうやな……!松山の若旦那衆の!」
「まさか七緒ちゃんのこと嫁にでももらいに来たんじゃ……」
ざわつく「ごはん処」にはっとした七緒は、真っ赤な顔のまま恭弥に詰め寄った。笑顔で。
「き、桐谷さんたら!嫌ですね、昨日のお酒がまだ残ってるんじゃ」
「残ってない。俺はザルだから」
「(くっ)」
「それに、昨夜も言ったが、俺は君に惚れてるんだ。妙な嫌疑をかけられるくらいならもう遠慮はしない」
今度こそ「ごはん処」は、常連客たちの歓声に包まれた。七緒は顔を覆って項垂れた。
「いただきます」
澄ました顔で箸を取った恭弥は、目の前に並べられた朝食に手を合わせる。
七緒のことはそれとして、恭弥はすっかり「とと屋」の食事の虜である。
(こういうのが食べたかった)
今日の朝食は、油の乗った焼き鯖に、野菜がたっぷり入った出汁の旨み汁。ふうわりと湯気の立つだし巻き卵に、自家製の漬物も添えられている。
まず恭弥が箸を伸ばしたのは鯖だった。
ぱりっと音を立てて破けた皮の下に、じゅわっと油の乗った身と、とろとろの血合。ほぐして口に運べばすかさず塩味が広がり、慌てて米を頬張った。
(……うまい!)
恭弥の顔は自然と綻ぶ。
*
(……それでまた、美味しそうに食べるのよね!)
箸の使い方や姿勢の一つ一つに品があるのに、ばくっと大きな口を空けて料理を頬張る恭弥の食べっぷりは、七緒の心をきゅうきゅうと嬉しさと気恥ずかしさに締め付ける。
下手に褒め言葉を並べられるより、彼の全身全霊が「とと屋」の料理を美味いと告げているのだ。
それを見ていた他の宿泊客たちも、気付けば色めき立つのをやめて自分の膳に向かい始めている。
七緒も心で同意した。彼の食べっぷりは、不思議と見てる相手の食欲も掻き立てるのだ。
「……洗い物してくるわ」
母に告げてのれんの奥に引っ込んだ。
ここでまたお腹なんかなったら、それこそ全て形無しだからだ。
「ご馳走様でした」
山盛りのご飯も合わせてぺろりと平らげた恭弥は満足そうに手を合わせた。「お粗末様〜」通りがかった橙子がにこにこと告げ、のれんの奥に声をかける。
「七緒ー!桐谷様お食事終わったわよぉ」
しばらくして、七緒は複雑な顔でのれんをかきわけ、顔を出した。(なんで呼ぶのよ……)と顔にははっきり書いてあるはずだ。
腰を上げた恭弥は、名刺入れからシンプルな白い名刺を取り出し、七緒にそれを差し出した。
「春灯亭十八代目当主、桐谷恭弥だ」
もう素性は知れているだろう、と言わんばかりのおざなりな自己紹介に「……はい」 と七緒も曖昧に頷く。「とと屋」は小さな民宿だ。自分が返す名刺すら持っていないことも、今の七緒には痛い。
じゅうはちだい。
口の中で繰り返す。
とてつもなく長い、宿の歩みを極めた一族の家柄。
人知れず萎縮しそうになる心を叱咤し、七緒は凛と背を伸ばして恭弥を見た。
そんな七緒を、恭弥もまた微笑んで見返す。
「君はいつも、戦に出る前の
「強くなければ、守れるものも守れないもの」
「そういうところが好きだ」
「ありがとう。でも、応えられない」
これまでになくはっきり告げた。恭弥の静かな動揺を七緒は確かに感じた。
彼のストレートな愛情表現にようやく慣れ始めてきたところで、七緒はようやく、冷静になって考えることができたのだ。
本当に恭弥が自分自身に興味を持ってくれていたとして、彼と恋人のような関係になることはできるのだろうか。
答えは、否だ。
できるわけがない。
「私は、きっとずっと、心の底からあなたを信用することはできないと思う。あなたが悪いわけじゃなくて……。あなたが一人の旅館経営者である限り。同じ業界を生きている限り――絶対無理なの」
それだけの傷を、七緒はもう負っている。
もう一度誰かを心から信じて、身を預ける勇気も時間も気力も、七緒にはとっくになくなってしまったのだ。
「……ごめんなさい」
いつの間にか静まり返っていたごはん処に、ぽつりと七緒の謝罪が落ちる。
「わかった」
黙り込んでいた恭弥が口を開いたのはその時だった。
(伝わった)
七緒はほっと小さく肩を降ろし、眉尻を下げて恭弥を見た。
恭弥はすでに七緒に背を向け、携帯を耳に当てている。そして数コール待ったかと思えば、唐突に通話相手に言い放った。
「榊。俺だ。
――――――ああ。今日限りで春灯亭の当主を降りる。あとは任せた」
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