第11話

 千本錦を見事言い当てた恭弥は、その後七緒に進められるままぐいぐいと日本酒を呑み、おおいに「とと屋」の売り上げに貢献した。

 七緒は複雑である。


「料理も美味い。酒も旨い。なのに、どうしてここはさほど話題にならないんだろうな」

「……失礼ですよ。桐谷さん」

「そうか?悪いな」


 へべれけになってもおかしくないほどの量を呑んだにも関わらず、恭弥はほろ酔い加減で、なんとも気持ちよさそうに七緒に語りかけた。

 七緒は七緒で、恭弥の目的はひやかしか土地の買い付けのどちらかだと踏んでいたので、こんなふうに食も酒もしっかり楽しんでもらわれると困ってしまう。


(いやだな、情が湧いてきた)


 やりとりする言葉が砕けてきたのも、様からさん付けに呼称が変わったのも、七緒が気を許し始めた証拠だ。

 しっかりしろと自分を叱咤している間に、恭弥はなぜか間仕切り越しに他の宿泊客に絡まれていた。


「おにいちゃん、ここ、初めてじゃろ。ようけぇ見ん顔じゃし」

「……ええ」

「ここの酒、ほんっまうまいじゃろ。わしらもな、来るたび驚いとんじゃわ。ほんでな、これ、誰が仕入れとると思う?」

「篠原さーん。飲み過ぎですよ」

「あそこの七緒ちゃんなんじゃわ。ほんでな、あの子がまたようけ働きよるんじゃわ!独り身じゃけど」

「独り身は余計よ!」


 ぎくりとしたのは、恭弥がまた七緒へのアプローチをここで繰り広げるのではないかと危惧したからだ。

 「とと屋」の宿泊客が常連ばかりだということはきっと彼も気付いているだろう。七緒が彼らに可愛がられていることも。

 ならば、外堀を埋めるのにこんないいタイミングはない。


「ええ、そうですね」

 しかし恭弥は、それをしようとはしなかった。


「心配しなくても、彼女ならきっといい出会いに恵まれるでしょう。見守っている方も多そうだ」

「そうなんじゃあ!」

 恭弥の言葉に、そこかしこでうんうんと頷く声が上がる。

「わしらもここに通って長いけん、七緒ちゃんはもう娘みたいなもんで……」

「ええ」


 相槌を打ちながら静かにお猪口を傾ける恭弥の姿に、七緒は何か、小さな胸のざわめきのようなものを感じていた。



**



「桐谷さん」


 のれんをくぐって「ごはん処」を出た恭弥のあとを、七緒も雪駄で追いかける。声をかけると、提灯を持った恭弥が肩越しにこちらを振り返った。

「少しいいですか?」

 にこりと笑った七緒が恭弥を案内したのは、店の裏手のささやかな展望スペースだった。

 といっても、四畳半ほどの空間にベンチが置いてあるだけなので、スペースというより秘密基地だ。そこに座れば駅周辺のささやかな夜景がフェンス越しに楽しめる。



「こんなところに酔った男を連れてきていいのか?」

 冗談めいて尋ねる恭弥に、

「ええ。誰にも聞かれたくないので」

 と七緒はまっすぐ答えた。


「どうして、篠原さんたちを味方につけなかったの」

「……もうかしこまるのはおしまいか?」

「その方が良ければそういたしますけど」

「いや、こっちのほうがいい」

「そう」

 強い口調で尋ねる七緒の苛立ちを感じたのだろう。恭弥は七緒に向き直り、彼女の前に立った。


「私を籠絡ろうらくしたいなら、外堀から埋めるべきだったわ。それとも余裕のつもりなの? 常連客にそういう素振りを見せたら、私が断れないだろうからって?」


 恭弥は黙って聞いている。

 七緒の胸の奥にくすぶるざわめきは―――不快感だ。

 「とと屋」を利用しようとしているくせに、そのやり方は回りくどく、人の心を弄ぶことにためらいがない。

(そんなの、まるで、彼のようじゃない)



「ずいぶんお優しいのね。老舗旅館の若様って」


 恭弥の目が軽く見開かれる。

 気付かれていたとは思わなかった、といわんばかりの表情を見て、七緒は彼の目論見が崩れたことを確信した。


「冷やかしできたのか、それとも何か別の目的があってきたのか知らないけど、私は絶対にあなたの思い通りになったりしない。とと屋も誰にも譲らない」

「……」

「あなただってこんなちっぽけな民宿に泊まってるほどお暇じゃないでしょ。これ以上は時間の無駄だから、やめてほしいの」

「……」

「そ、れに……」


 じゃり、と足元で玉石が鳴る。

 恭弥が一歩距離を詰め、七緒が一歩身を退かせたためだ。

 カシャンと背中にフェンスの感触を感じた時には、恭弥はもう七緒の目と鼻の先まで迫っていた。


「………どいて」

「退いたら逃げるだろ」


 がしゃんと恭弥の手が背後のフェンスを掴み、いよいよ七緒は微動だにできなくなった。

 ほんの少しでも動けば、服や、身体や、吐息が、触れてしまう。

 恭弥の声は静かだが、そこにはほのかな怒りが滲んでいた。


「このぐらい近付けば、さすがに俺が見えるか?」


 唇を噛み、キッと目の前の男を睨む。

 恭弥は相反するようなゆるやかな微笑みで七緒に応じた。


「………はじめから見えてるわよ」

「どうかな。俺には、君が誰かに俺を重ねてるように思えてならないが」

 七緒の動揺を見逃す恭弥ではない。

「……じゃあ、あなたは何の思惑もなく、ここに来たの?」

「そうは言えない」


 恭弥の返答にはっきりと傷ついてしまったことが、七緒は悔しくてならない。突き飛ばしてやろうと腕に力を込めた時だった。

「――――!」

 唐突に、唇を喰まれた。

 息をつく間もないキスにあっという間に思考が掻き乱されていく。

 前髪の隙間から深い藍色の瞳が七緒を見つめる。

 すっかり足のたたなくなった彼女が解放されたのは、それからしばらく経ってのことだった。


「俺は最初から君以外に興味なんかない」


 どこか不機嫌そうに言い放った恭弥は、唇をひと舐めし、真っ赤に茹だった七緒を見つめた。

 まるで、もう遠慮も躊躇もしないと心に定めたような顔で。


「ずっとその激しさに惹かれてる。君だけ欲しい」

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