第10話
恭弥が渡された提灯を手に「とと屋」の表に出たのは、午後6時半を少し過ぎた頃だった。
足元にぽつりぽつりと並ぶ誘導灯に誘われて辿り着いたのは、木造の平家の建物。淡い提灯の灯りに照らされるのれんには「とと屋のごはん処」と書かれている。
「お待ちしておりました。桐谷様」
のれんをくぐって玄関へと足を踏み入れた恭弥は、再び七緒に迎えられる。
昼間の着物姿とは違い、夜は落ち着いたブラウンのコックコートに黒いエプロン姿だ。仕事着の女性を見て綺麗だと思ったのは初めてのことだった。
「夕方に宿を出て、少し周辺を散策していた。遅くなってすまない」
「いいえ。その時間なら海風が心地よかったでしょう?」
七緒がゆったりと微笑んだ。
「私も休みの日は、よくそのくらいに散歩します」
昼間彼女の元恋人が同業者だと知れた時、自分の中に湧いた黒々とした感情に恭弥はひどく戸惑った。
あの日彼女を泣かせたのも、おそらくはその男なのだろう。
気丈な彼女が声を振るわせて泣くほどの、どんな心無い言葉をかけられたのだろう。東京の――たかが一ホテルの支配人如きに。
思い浮かべるだけで、不快感に胸が焼ける。
「桐谷様?」
呼びかけられて、恭弥ははっと我に返った。暖色の灯りに包まれた木の空間にはすでに他の宿泊客たちが席についていて、和気藹々と食事を始めている。
彼女に誘われるまま後に続き、恭弥もとっくに卓についていた。
「どうかなさいました?」
じっと観察するような眼差しがこちらに向く。
それが不快でないのは、その眼差しの隅々に恭弥の身体の不調を見極めようとするような真剣さが滲んでいるからだ。
やっぱり、と七緒は心配そうにこぼした。
「どこか具合がよくないんですか……? 私も水をかけてしまったし……。よかったら何か暖かいものでも持ってきましょうか」
いたわるように向けられた声の優しさに、恭弥の胸の棘はほろほろと崩れ落ちていく。
(世話焼きで人好き。この業界に向いてるな)
「……いや、大丈夫だ。どこにも不調はない」
自然と頬にはやわらかい微笑みが乗った。
嫉妬に任せ、昼は自分でも呆れるほどあからさまな好意を示してしまったが、今の彼女からその動揺はひとつも窺えない。
(手強い……)
そう思いつつ、どこか嬉しく感じている自分がいるのも恭弥は気付いていた。
「考え事をしていただけだ。食事の席で、無粋だったな」
「いえ……」
しばらく恭弥の様子を見つめていた七緒だが、その言葉に嘘はないと判断したのだろう。ほっと胸を撫で下ろして、卓に並べられた前菜の説明を始めた。
「うちの前菜は――というか、食事は全部、自家野菜と土地の食材を扱ってます。野菜も魚もとりたてが一番だから」
道後「春灯亭」の前菜は、まさしく豪勢の一言に尽きる。
旬の食材、彩り、品のある盛り付けに、丁寧に型をなぞった味付け。だから誰も、口に運んだ瞬間以外、その味を覚えてはいられない。
「……うっ」
「桐谷様!?」
口元を抑えて絶句した恭弥に、七緒は血相を変えて近寄った。何かひどい味付けでもあっただろうか、他の方には大人気の煮付けなのに、と不安になった七緒だが、恭弥の口から発されたのは、
「………どうして、ただの里芋がこんなに美味いんだ!」
というなぜか恨めしげな、賛辞ともとれない賞賛だけだった。
「紛らわしい反応しないでください、もう」
「……すまない」
さすがに文句を発するが、恭弥の方は未だ不思議そうに首を傾げて咀嚼するばかりだ。それでも一品一品口に運ぶたび感動に目を輝かせられるのは「うちの最高の料理で鼻を明かしてやろう」と意気込んでいた七緒にとっては、ほんの少し後ろめたく、しかしそれ以上に、嬉しくてくすぐったいことだった。
(いけないいけない)
一度裏に引っ込んだ彼女が再び持って現れたのは、透明なガラスのお猪口に注がれた一杯の日本酒だ。
「これは?」
「とと屋の〝おはつ酒〟です」
七緒の瞳に、ほのかに強い意志が宿ったことに、恭弥は見逃さなかった。
「うちは町と人をつなぐ民宿。これはとと屋流のおもてなしで、初めていらしたお客様には、その方にぴったりな地酒をお出ししてるんです」
「ではこれは」
「広島のとある小さな酒蔵さんが生産している限定品なんですよ。どうぞお試しください」
促されるまま、恭弥は一口酒を口に含んだ。
嬉しげに、目元が緩む。
「
ぞくぞくっと、七緒の背筋を、悪寒とも歓喜ともとれぬ何かが駆け抜けた。
(……本物だわ。この人)
広島の水質は決して酒造りに適しているとは言えない。
そのかわりに高度な醸造技術と精米技術で、明治には広島は酒どころとして全国に名を馳せている。恭弥が言い当てたその千本錦は、最近開発されたばかりの酒米なのだ。
これを使っている酒蔵はまだまだ少ない。
松山道後「春灯亭」は、取り揃える酒の種類の豊富さでも知られている。当然、四国の地酒が主流だ。
まさか酒米を言い当てられるとは思わなかった。
つい言葉に詰まってしまった七緒の前で、恭弥はしっかり舌の上の酒を堪能し、最後はぐいっと大きく杯を煽った。
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