第9話
「七緒の名は音の響きがいい。漢字もいい。末長く続くものの糸口になる名だ」
「………」
「君の作ってくれた昼の膳も素晴らしかった。心が満たされていくのが分かる。毎日食べたい」
「………」
「字もとても綺麗だし」
「桐谷様!」
旅帳を書きつけていた手元をひょこりと覗き込まれ、とうとう七緒は声を上げた。「……ん?」穏やかに微笑んだ顔と間近で目が合い、一瞬で勢いは削がれる。
「……こ、個人情報ですから、見ないでください」
「俺は君しか見てない」
「そういう問題じゃありません!!!」
「まあ、それもそうだな」
くすくすと笑いながらあっさりと引き下がった恭弥は、また少し離れたダイニングスペースでくつろぎ始めた。七緒は変な汗をかきながら、ためしに口を開いてみる。
一度崩しかけた口調は、今更ながら硬いものに置き換えてみる。
さほど意味をなさなそうであるが。
「………お部屋のご用意はとっくにできていますから、お上がりになられてはいかがですか?」
無数に立てかけてある文庫の一冊を手に取った恭弥が、するりと視線だけを七尾に向けた。
(う……)
目は口ほどに物を言う、というが、こんなに雄弁な瞳を七緒は知らない。
もはや隠す気もないと言わんばかりに、恭弥の瞳は、七緒への強い思慕に溢れていた。
――時間にして、たっぷり数秒。
再び文庫に視線を落とした恭弥が声だけ返す。
「今十分君を目に焼き付けたから、もう当分見ない。それならここにいていいか?」
「………………どうぞ」
そんな聞き方は、ずるい。
七緒はしばらく何事か返す言葉を探して口を開閉させたが、結局口をへの字にしてそう答えるほかなかった。
まあ、それもほんの数分間の話である。
「見てるじゃないの!!」
「見てない」
「こんなに目が合ってますけど!」
「……仕方ないだろ」
再び声を荒らげる七緒の前に、恭弥はゆったりと立った。
不思議なことに、一時は消えたと思っていた香の香りが再び七緒の鼻を掠める。まさか彼の身体から発されているわけでもないだろうに、思わず、七緒はじっとその白い首元のあたりと見つめてしまった。
「自分でも解せないと思ってる」
「……っ」
恭弥の細いがふしくれだった指が、ペンを握る七緒の指先に触れる。
息を呑んだ。カウンター越しでなければ、とっくに逃げ出してしまっていたかもしれない。
恭弥の声は、花の
「君の指先が動けば、目で追いたくなる。視線の向けた先に何があるのか探りたくなる。声を聞きたくなる。その瞳に、俺を映してほしくなる」
恭弥の瞳には、まっすぐ、七緒だけがうつっている。
それがふと微笑と共に外されたので、七緒は静かに息を吐いた。
「やはり、俺は部屋に上がることにしよう。このままここにいると君に穴が開きそうだ」
「………で、は。お部屋へご案内します」
「構わない。さっき受けた説明で十分だ」
ちゃり、と部屋の鍵を揺らしながら、恭弥は廊下の奥へと消えていった。
ぼんやりと立ち尽くしていた七緒は、背後から受けた母の熱烈なタックルによりはっと我に返った。
「ちょっとちょっとちょっと〜〜!どういうことなの!?ねえどういうことなの??」
「……お母さん煩い」
「だってだって〜!彼、どこかで見た顔だと思ったら、春灯亭の若様じゃない!」
「春灯亭……」
「松山の老舗旅館よ!ほら、この間テレビにも出てたでしょ?」
春灯亭。
松山で最も格式高く、歴史のある老舗旅館だ。
一体どこで知り合ったのかとうるさく尋ねてくる塔子とは真逆に、七緒の心は少しずつ冷静さを取り戻していった。
(……なんだ。そういうことか)
自分はつくづく、利用されやすいタチなのだろう。これはもう認めるしかない。
(どいつもこいつも人を馬鹿にして)
そう憤る気持ちも、なくはない。
しかし今までの七緒と違うのは、この宿を守っていくという確固たる決意が、はっきりその胸に定まっていることだった。
誰にも渡さない。
私が守る。
たとえ相手が一流の高級ホテルだろうが。老舗の有名旅館だろうが関係ない。
「お母さん」
さっと振り返った七緒が言い放つ。
「そろそろ配膳の時間でしょ?今日は三宅さんと花巻さんがきてるから、
突然意識を仕事に切り替えた七緒に、橙子は「え、ええ」と目を瞬かせながら頷いた。まだまだ恋バナにうつつを抜かしたい本音は隠しきれていないが、これ以上は七緒が許さない。今日の宿泊客は、恭弥だけではないのである。
「あと料理は私が運ぶから!こないだ転んだんだから、絶対無理に持ってこようとしないでよ」
「はいはい」
「とと屋」の夕朝食は、宿の前の坂道を一つ登った先にある、これまた小さな木造の平家に用意される。宿泊客たちは時間になると、渡された「とと屋」の提灯を下げて石畳の坂道を登るのだ。
「そうだ、七緒。桐谷様の〝おはつ〟は何にしようかしら」
「……そうね」
七緒はしばし考え、にっこりと微笑んだ。
「老舗の若様には、うちのとっておきの一献を御相伴いただきましょうか」
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