第8話
「じゃあ佐久間さんはつまり、彼女に、こう言ったわけっスね?」
その晩、日比野はカウンターにグラスをことりと置き、大きなため息を吐いて横の上司に目をやった。ほんの少ししか減っていないグラスと、頬を赤らめてむっすりとむすくれる姿は、普通の男がやれば気色悪いだけだが、腹立たしいことにこの上司は様になる。
ネル アジュール 東京ベイの若手支配人、佐久間薫は文字通りエリートで仕事にもそつがなく、顔までいいため女性社員からの熱視線が絶えない。
そんな彼にはどうやら遠方に恋人がいるらしいというのは、社内では有名な話だった。
「君との交際は『市場調査』で。君自身を心から愛していたわけでもなくて。そもそも僕らは釣り合っていなかったし。このあたりで遊びも終わりにしませんか………と」
「はい」
「いやアンタマジで馬鹿ですか?」
眉間を揉みながら、日比野はゆっくり繰り返す。
「え………え〜? マジで馬鹿じゃないですか。何やってんですか」
「口を慎みなさい」
「いやさすがに慎みませんって。だってこないだ、嬉しそうに婚約指輪買ってたじゃないですか。何がどうなってそんなド鬼畜男みたいな台詞が口から飛び出しちゃうわけなんです」
「僕も、言葉が足りなかったとは思ってますよ」
「足りなかったというか、チョイスが最悪ですけど」
薫はグラスの中の氷を揺らしながら、かすかに眉を顰めた。
「しかたないでしょう。僕が彼女に近づいたのには確かに下心があったんです。100%の愛情だけではなかった。結婚を考えた今、それを清算しようと思って言いました。新しく関係を始めようと」
「釣り合ってないってのは」
「彼女は一途に愛してくれてましたから」
最悪だ。最悪すぎる。
日比野は頭を抱えた。どう足掻いても言葉のチョイスが最悪だし、圧倒的言葉足らず。まず間違いなく、彼女に薫の意図は何も伝わっていないだろう。
「泣かれたでしょ」
「………プロポーズを察して喜んでるのかと」
「んなわけなくて草」
部下の暴言は留まるところを知らない。薫は勢いよくグラスを煽った。
「まあ、もう済んだ話です。彼女は彼女で、どうやら本性はもっと過激だったみたいですし。別れたなら別にそれはそれで」
「あー。デコの擦り傷、それでですか。靴でも投げられました?」
「あなたどこかで見てたんですか?」
「そんくらい分かりますってぇ。薫さんがいまだにぜんっぜん未練タラタラだってこともね」
「……」
「そんで? そのカオス空間に彼女の妹が乱入して、いよいよ収拾がつかなくなったと」
「……ええ」
「で、ぶっちゃけ寝たんですか」
「………」
「この鬼畜野郎」
「せめて僕が答えてから罵りなさいよ」
カウンターにごつんと薫の額がぶつかる。酒と失恋に潰れる上司の姿が誰にも見られていないか、日比野は念の為店内を見回して知人の顔を探した。
「分からないんです」
「……わからない?」
「たぶん、何も起きてないと思いますが……」
顔を上げた薫は、狭い額をかすかに赤くしながら、その日のことを思い出すように目をすがめて言った。
「一度彼女の妹が、僕に会いにホテルに来たことがあったんです」
「……あー、なんか覚えてます」
去年の夏頃だったと思う。
今人気爆増中の新人モデルが薫を訪ねてきたという話で、一度社内が持ちきりになった時があった。その時のことだろうか。
「姉のことで相談があると言われたので、その晩、ディナーを一緒にとったんです。それで……気がついたら、彼女の借りてるアパートに……」
どんどん消えていく語尾に、日比野も事態を理解してため息を重ねた。
この上司が酒に強くないのはご覧の通りである。
しかし意外なのは、その自身の「弱点」を薫が会って間もない女性に晒してしまったことだ。
「意外っすね。いつも外食じゃ酒は飲まないじゃないないスか。彼女の妹だからって油断しました? ダメですよー、男が狼なら女はメスライオンなんだから」
「油断したわけじゃありません。乗せられただけです」
「は?」
「姉を嫁に欲しいなら私に酒で勝ってみろと……」
「アホ」
ぎろりと睨まれたが、今の薫は冷徹な上司ではなく恋愛にポンコツな一人の男だ。怯むはずもない。
「それで、酒に酔って女のアパートに連れ込まれて、朝ベッドの中で目が覚めて、どうして何も起きてないと思うんです?」
薫はその問いかけには答えなかった。それを口にするには、少なくとも今の時点では、あまりに物的証拠が揃いすぎていると改めて感じたからだ。
「……まあいいや。なんにせよ、復縁したいならこんなところでウダついてないでとっとと会いに行ったほうがいいっスよ。来年からは総支配人なんですから」
「わかってます」
「彼女どこ住みでしたっけ」
「尾道」
「おのっ………佐久間さん、今までよく会いに行ってましたね」
今度は尊敬の念を込めて告げられたが、薫にとってその距離はさほど苦痛ではなかった。褒められるいわれもない。今はPCひとつあればどこでだって仕事ができるのだから。
「もちろん復縁したら必ず彼女は東京に連れてきます。もともとあの日は、その話もするつもりでしたから」
「あれ、彼女んち民宿って言ってませんでした?」
よく覚えているものだ、と今度は薫が一目置く番だった。腹立たしいので顔には出さないが。
「彼女があそこにいても未来はありません。」
いくぶん酔いが覚めてきた薫は、背筋をしゃんと伸ばして断言した。
「民宿はしょせん民宿。スキルやノウハウを伸ばすにも限界があります。彼女のためにも、あの宿のことは忘れた方がいい」
「………おーぼー」
「なんとでも言いなさい。」
財布からカードを引き出して店員に渡す薫の横で、日比野は「気をつけた方がいいっスよ」と一言添えて、グラスの中身を飲み切った。
「佐久間さんよりステータス高くて仕事できて顔もいい男なんか、まあそうそういないでしょうけど」
「そうでしょうね」
ふん、と鼻で笑う薫。日比野は言を重ねる。
「まあ仮にそんな男が現れたとして、しかも彼女にがっつり惚れ込んで、さらには愛情表現がドストレートだったら――。正直、勝ち目とかないスからね」
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