第7話
「あら七緒、ご一緒してたの?」
のれんをかき上げて顔を覗かせた母、橙子に、七緒はなんともいいがたい恐縮しきった表情を向けた。
「………桐谷様に、お誘いいただいて………」
本当のところは自分のお腹が鳴って憐れみをかけられただけなのだが、さすがに情けなくて言えない。
ちらりと正面に座る恭弥を覗き見れば、彼のどこか喜怒哀楽に過剰ではなさそうな、そのくせほのかに熱を帯びた眼差しとかちあって、慌てて目を逸らす。
「すみませんねえ、うちの娘がご迷惑をおかけして……。お身体はあったまりました?」
「ええ。かえってお気遣をいいただきました」
「とんでもないわぁ。それに、うちのもぶり、美味しかったでしょう?人気の朝ご飯なんですよ」
「私、お茶淹れてくる」
彼の対応は母に任せ、七緒はそそくさとのれんの奥に引っ込んだ。
(知り合いとかじゃ、ないわよね……?)
眉根を寄せながら考え込む。
歳は薫と同じくらいだろうか。しかしあんな綺麗な人、どこかで会ったらきっと覚えているはずだ。絶対知人ではない。……なのに、彼が自分を見つめる視線の中に、七緒はどこか他人ならざる感情が乗せられているように思えてならない。
たとえばかつて薫が、自分にむけてくれていたような―――。
(ありえないありえない。どんな妄想よ)
急に気持ちが白けた。
急須を傾けて熱いお茶を注ぐと、七緒は二人のいるダイニングへと足を踏み入れた。
「お待たせしました」
「それで七緒ったら、盛大にフラれたみたいでねぇ。まあ、東京の高級ホテルの支配人だなんて虫の良い話だと思ってたんだけど」
「ちょっとお母さん!!??」
何の話してんのよ!と詰め寄ると、母はおほほと上品に笑った。
「ちょっとしたお茶請け話を」
「人の失恋お茶請けにしないでよ!」
尾道に来てもう長いのに、母のおしゃべりときたら依然東京のおばちゃんである。
「すみません。お耳汚しを」
呆れたため息をつきながら恭弥の前に湯呑を置いた七緒は、顔を上げてどきりと固まった。
恭弥の瞳は、凍った湖のように凪いでいた。
「……桐谷様?」
「――――その、ホテルの名前は?」
「え?」
「君の元恋人が支配人をするホテルだ」
答える必要もないはずなのに、七緒はうっかり、ネル アジュールの名を答えてしまった。そうしないといけないような気迫を、目の前の彼から感じていた。
恭弥は一度斜め上に視線を投げたが、すぐにそれを彼女に戻す。
「知らないな」
初めて見る彼の微笑はうっそりとして、冬の月のように冷たい。
「でも俺はその支配人に感謝しないと」
「え?」
七緒には、今のこの状況にさっぱり分からない。かろうじて母の「きゃあっ」という小さな歓声は耳に入ってきた。――でも、そのほかは何も分からない。
七緒のすぐ鼻先には、恭弥の顔がある。
陶器のような肌のきめ細やかさが見えるほどの距離。
彼が喜怒哀楽に乏しいだろうと踏んでいたのは、七緒の大きな勘違いであったらしい。
恭弥の口角は、挑戦的に弧を描いていた。
「おかげで俺は、堂々と君を口説けるからな」
**
がしゃん。
同時刻。ネル アジュール 東京ベイホテル 天空ラウンジにて、佐久間薫は取手の折れたティーカップを驚きの眼差しで見つめていた。
「失礼致しました」
しかしそれも一瞬のこと。
すぐに人好きのする笑みを浮かべ、向かいに座る商談相手に微笑みかける。
「アンティークは繊細すぎるのが玉に瑕ですね。お怪我はありませんか?」
「ええ。こちらは」
「安心いたしました。では、また日が近くなりましたらご連絡いたします」
商談相手をエレベーターホールで見送り終えた薫は、即座にラウンジに方向転換した。
「君」
細縁の眼鏡越しに鋭い眼差しを受け、給仕スタッフはびくりと身をすくめた。
「ラウンジのカップを全て調べろ。ヒビ一つでも入ってるものがあればすぐ報告するように」
「は、はい!」
「言っておきますが、完璧以外は全て怠慢です。行きなさい」
「はい!」
駆け足でバックヤードへ引っ込むスタッフを険のある眼差しで見送り、薫は深いため息をついてカウンター席に腰掛けた。自分の前におずおずと差し出されたコーヒーも、口に含む前に取手のチェックを忘れない。
「あいかーらずピリピリしてますねえ。佐久間サン」
「……日比野」
「商談お疲れ様でーす」
ふざけた語調で近づいてきた部下を睨みつける。
しかし彼のほうはどこ吹く風で、自分も薫の隣に腰掛けるなり「コーラね」と生意気な口調でカウンター内に要求した。ラウンジにコーラはないと告げられると、渋々差し出されたアイスコーヒーをちびちび飲み始めた。
「フランスの市場はどうでしたか」
尋ねると「あー」と気の抜けた声が返ってくる。
清潔感のある短髪にグレーのスーツ。やや吊り目がちの目には愛嬌があり、外見からして営業向きである。
「まあ悪くないスね。先方金持ちばっかなんで、ヘリチャーターの話とかで一発です。上空5000フィートの東京ナイトクルーズで一生に一度のプロポーズを〜〜なんつって」
ぱきん。
「え」
薫の手の中で再び砕けた取っ手を見て、日比野は口を閉ざした。何度か薫と取手を交互に見つめ、能面のように無を極めた上司の顔に、まさかとある仮説を立てる。
「…………薫さん、プロポーズ失敗したんですか?」
「……」
「……ま、まじか」
「日比野君」
不穏の気配を察知して「じゃあ俺はこれで」と立ち去ろうとした日比野の逃亡計画は、首根っこを掴まれてあえなく失敗に終わった。
にこりと、薫は笑う。
「今晩、僕に付き合いなさい」
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