第6話
「この度は私の不注意で大変申し訳ございませんでした」
「……いや。本当に気にしてないからもう謝らなくていい。それより、いい湯だった」
恭弥が風呂から上がって早々、九十度に腰を曲げて待機していた七緒は、ゆっくりと顔を上げる。
七緒は、彼のほどけたような顔を見て、その言葉が嘘でないと分かるとほっと緊張を緩めた。
温泉にはゆっくり浸かれたのだろう。
洗いたての髪はやわらかそうで、なぜかさっきよりも彼を幼く見せた。
あのあと、彼からしたいい香りの正体がお香であることに気がついた。服に焚き染めていたのかもしれない。
今の彼からその香りはしないが、ほのかに漂うシャンプーの香りは自分と同じものなので、七緒はなぜか小さく胸をくすぐられるような心地になった。
「では桐谷様、こちらへどうぞ」
七緒が彼をダイニングへ誘うと、そこには昼の膳が用意されていた。膳と言っても握り飯をはじめとした簡単な軽食である。
「……これは」
「もちろんお代は結構です。どうぞお召し上がりください」
「俺は、もう謝罪は不要だと伝えたはずだが」
言ってから、恭弥は難しい顔で口をつぐんだ。
高圧的な物言いは幼少期に仕込まれ、いつからか身に染み込んでしまったものだ。
当主たるもの言葉遣いから使用人とは一線を画すこと。
周囲のそんな時代外れな教育を間に受けて、気がついたときにはもう修正のきかない歳になってしまっていた。
(怯えさせただろうか)
早くも痛む胸をおさえながら恐る恐る斜め下を見れば、思いがけず、悪戯な笑顔とぶつかった。
「でも桐谷様、おなかが減っているでしょう?」
驚いて目を丸める。しかも間の悪いことに、同意は恭弥の胃袋がした。
ぐうぅ、
低く唸るそこを黙らせるように片手で押さえる。
「……」
たしかに、この二日間の休みを得るために、ここ数日の恭弥の仕事ぶりは凄まじいものがあった。それこそ寝食を忘れるほどだ。
「………
どうして分かったんだ」
あまりの格好のつかなさに口端を引き締めながら尋ねると、彼女はてきぱきグラスに水を注ぎながら「わかりますよ」と鷹揚に応えた。
「おなかが減ってるお客さんの顔は、見れば分かります」
自分に向けられた視線には、やはり媚びもへつらいもない。労わるような素直な優しさに、恭弥の心の棘は知らずと削られていく。
「さあ、おかけください。尾道のもぶりを食べたことは?」
「……いや」
「よかった。じゃあ召し上がれ」
恭弥の前には、笹の葉の上に置かれたころりと丸いフォルムの握り飯がある。
もぶりとは、広島の方言で「混ぜる」や「混ぜ込む」を意味する「もぶる」から取られた、すなわち混ぜ込みごはんの握り飯だ。
ぐるぐるとうるさい胃袋を黙らせるため、恭弥はそれ以上は食い下がらず、ありがたく一飯の恩に預かることにした。
「いただきます」
丸い握り飯を手に取り、一口、がぶりつく。
意外と豪快な食べ方ね、と意表をつかれている七緒の前で、恭弥は軽く目を見開いた。
(………うまい………!)
米は絶妙な炊き加減で、混ぜ込まれた野菜や、甘辛く煮付けられた小魚のうまみが染み込んでいる。
「うちは民宿の裏で自家農園もやってるの」
美味しそうに握り飯を頬張る恭弥に、七緒は嬉しそうに語った。
薫と付き合っていた時は懇切丁寧な仲居用語の接客につとめていたが、別れてからはほどよく口調を崩す元のスタイルに戻した。
そうしてはじめて、宿泊客たちから「実は堅苦しくて寂しかった」 と声をもらったので、ここだけは薫と別れた利点だと思うようにしている。
「にんじんとかごぼうとか。この時期はさやいんげんもよく採れるから」
「魚は下の市から?」
「ええ。毎日交代で早起きして戦争です」
握り飯を一つ平らげ終えたたところで、恭弥はことりと置かれたあら汁に手を伸ばした。
ふう、ふう、と湯気のたつ汁を冷まし、ずっ、と一口啜る。
鯛のアラ汁だ。これまで幾度となく口にしたことがあるはずなのに、こんなに美味いと感じたことはない。
アラから滲み出るあっさりした海鮮出汁とまろやかな味噌、あおさのアクセントがたまらない。
「……全部、うまい」
噛み締めるように呟いた。
空腹が味方しているだけではないだろう。
港町だからこその鮮度と、上品さをとりつくろわないこの豪快さ加減が、恭弥の胃袋だけでなく心を満たしていく。
(来てよかった)
そうしみじみ思った時だった。
ぐぅ、
音がして顔を上げると、真っ赤な顔の七緒と目があった。慌てて目が逸らされる。しかし立て続けに腹の虫が声を上げるので、七緒はとうとう観念して口を開いた。頬はリンゴのように赤い。
「…………ごめんなさい。すごく美味しそうに召し上がるから、私までお腹がすいてきちゃった」
「!!」
「お昼まだなのよね」
ぐしゃっと胸を鷲掴みにされたような衝撃に、思わず袂を握りしめて絶句していると、
「じゃあ、ごゆっくり」
と顔から火が出そうなほど赤くなった七緒がそそくさ立ち去ろうとするので、恭弥は慌てて彼女の腕を掴んだ。
「食べてくれ」
ようやく恭弥が言ったのはそんなことだった。笹の葉の上のもう一つの握り飯を指さす。
「俺はもういい」
「え!?いや、そういうわけには」
「いいから」
七緒の顔が困りきった色に染まったのを見て、最後のひと押しをかける。
「それで今回の件はチャラにするから」
卑怯だと心の中で誰かが言った気がしたが、煩い黙れ。俺も自分が何を言ってるのか分らない。何だおにぎり一個やるって。外食に誘うとかもっとスマートなやり方はいくらでもあっただろうに、と恭弥は壁に頭を打ち付けたくなった。
「…………じゃあ」
しかし七緒の方は恭弥の読み通り、観念した様子で彼の正面に腰掛け、目の前に滑らされた握り飯の皿に手を伸ばした。
「いただきます」
彼女はお手玉のようなサイズのそれを手に取ると、小ぶりな口を目一杯ひらき、ばくりとかじりついた。
(意外と豪快だ)
そんなこと一つとっても心臓が忙しない。
頬いっぱいに咀嚼しながら、七緒の顔はすでに美味しそうにほころんでいる。
飲み込んで、またばくり。
飲み込んで、ばくり。
じっとその姿を見つめていた恭弥の視線に気付いたらしい。七緒ははっと口を押さえると慌てて飲み込み、最後に恥ずかしそうに唇を拭った。
「……もう、返してって言ってもないですよ」
「う」
「……う?」
「何でもない」
誰か医者を呼んでくれ。心臓がおかしいんだ。
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