第5話

 墨を溶かしたような黒髪に、生花を添えたくなるような物憂げな眼差し。

 水も滴るいい男って実在するんだ。

 ――なんて、言っている場合ではない。


「……とと屋という宿は、ここで間違いないだろうか」

「……はい。とと屋は、ここで……間違いございませんけれど……」


 双方、どこか緊張感を帯びた声音である。

 ごくりと生唾を飲む音さえ聞こえてきそうだ。





(まずい……こんなに早く会えるとは思わなかった)


 咳払いをして次の言葉を探す男、桐谷恭弥は、結局あの日「とと屋」ののれんをくぐる勇気が出なかった己の情けなさに打ちのめされながら、タイミング悪く重なった当主の仕事をようやく片付け、二日の休暇をとってここに現れている。


(――もう一度、彼女に会って確かめる必要がある)


 惚れた。だなんて言ったものの、32年生きてきてそんな経験は一度もない。

 自分の容姿が優れていることは知っている。場数もそれなりに踏んできた。だからこそ彼にとって、恋愛は慕われるものであってそれ以外にはなかったのだ

 そんな自分が、あの日から、何をしていても彼女の姿が頭に焼きついて離れない。

 その事実が恭弥にはなかなか信じられなかった。


 どうにか彼女にもう一度会えないか。

 そもそも今日は出勤してるだろうか。


 柄にもなくそんなことを考えながら坂道を上がっていた最中、突然上から水が降ってきた。

「……は」

 流石に面食らったが、言葉をなくしたのはそんなことが理由ではない。


 水桶を持つ彼女を目にした瞬間。

 その快活とした横顔や、気の強そうな眉や、初めて見る、小花柄の着物姿に。

 恭弥の心臓は痛いほど激しく跳ね上がったのだ。


(……中学生の、ガキか俺は)


 顔の赤みが引くまでしばらく息を潜めていようと心に決めた瞬間である。





(……や、やばいわ)


 対する七緒は、真っ青になって硬直するばかりだ。

 よく晴れた夏の日。自分が水をぶちまけた方向から水浸しの人間が現れたら、それはもうほとんど自分のせいである。

 七緒は震えた指先でびしょ濡れになった服を差した。


「……そ、そちらのお召し物って……」


 どうか勘違いでありますようにと願う気持ちが止まらない。

 彼はそこで初めて自分の姿を顧みたようだった。

「ああ」

 と何の気なしに言ってのける。


「気にしなくていい。すぐ乾く」


 やっぱり想像通りだった。

 告げられるや否や、七緒は動いた。


「たいへん申し訳ございません!!!さあどうぞ!!!」

「は」


 涙目で侘びながら彼の背に周り、のれんをかきわけ中へと押し込んだ。ふわりと嗅いだことのないいい香りにうっとりしてる余裕もない。


「うちの今晩のお客さまですか!?お名前をいただけますか?」

 彼は一瞬目を彷徨わせた後、小さな声で答えた。

「………桐谷」

「桐谷様!よ、ようこそとと屋へ!」


 シンプルなTシャツにジーパン姿で、どうやら他の手荷物はないらしい。一刻も早く乾かさなければいけない革製の製品がないことにひとまず安堵しつつ、七緒は彼を廊下の奥へ案内した。


「どうぞこちらに!」

「いや、でもまだ時間が……」

「チェックイン時間でしたらまったく問題ございません!ささ、どうぞどうぞ!」


 なにごとかと厨房から顔を出した母が「あらぁ。水も滴るいい男じゃない〜」などとどこかで聞いたような間の抜けた一声を上げたので、キッと睨んで厨房に引っ込ませた。

 笑顔をつくろって、彼、桐谷様を見上げる。


「ちょうど今しがたお風呂掃除が終わったところです。そろそろお湯もたまりましたから、どうぞ一番風呂をお楽しみください!」

「しかし……」

「うちのお風呂、檜の香りがしてすごく気持ちいいんです!海も見えますし!」


 今一度押し切るような笑顔で見上げれば、さっと慌てたように目を逸らされた。頬と耳の先がほのかに赤い。


「……では、お言葉に甘えて……」


 木の引き戸を開ける、その所作の隅々にまで行き渡る品の良さに、七緒は彼がどこかの御曹司なのではと勘繰った。思えば、姿勢や声音からも一般人と思いがたいしずしずとした雰囲気が感じられる。それこそ、東京の高級ホテルでも使っていそうな……。

 頭の中に薫のにくたらしい顔が浮かび、七緒はしゃなりと微笑んだ。


「かわりのお浴衣は中にありますから、そちらを使ってくださいね」

「………どうも」

「ごゆっくりどうぞ」


 ゆっくり引き戸が閉められた。

 次の瞬間、七緒は駆けた。



(負けてられない、とか言ってる場合じゃない!!今はなにより失地回復!!!未来の大望より今日の口コミよ!!!)



「お母さん!お母さん!!?私今から下のコンビニ行ってくるから!何買うのって――――パンツよ!それだけはクリーニング出せないもの!もうどうしよう!あの人すっごい顔赤かったし、風邪ひかせちゃったかしら!!御曹司なのに!!あったかいお味噌汁用意しといて!あら汁の!!」



 新品のパンツを握りしめて坂を駆け戻ってくる七緒の姿を想像し、浴室内の恭弥が崩れ落ちたのは言うまでもない。


(御曹司って、な、なんだ……!?)

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