第4話

 妹、詩音から電話がかかってきたのは、あの悪夢のような日から二週間が経ったある日のこと。

 みんみんとうるさい蝉の鳴き声をスダレの向こうに聞きながら、七緒は仏頂面で携帯を耳に当てた。


『ねー、お姉ちゃんってばまだ怒ってんのー?』

「怒ってない」


 クローズ作業を終えたレジをがしゃんと閉めると、その音は詩音の耳にも届いたらしい。

『あはっ、怒ってんじゃん!』

 と例の如く悪びれもしない笑い声が聞こえていた。

 彼女の背後からは何か慌ただしいやりとりが聞こえてくる。どこかの撮影現場にでもいるのだろうか。


『ね〜許してよぉ!だって薫さんめっちゃタイプだったんだもん!ちょっと味見するくらいいーじゃんか!お姉ちゃんのケチ!』


 もう怒鳴る気も起こらない。

 あんたは味見のつもりでも、相手はそうじゃなくなっちゃうんだって。そんなことが分からない妹ではないのだから。


(詩音が私のものばっかり欲しがるのなんて、今に始まったことじゃないもの)


 記憶があるうちの一番初めにのは、かわいい犬のシールだった。

 次がクマの人形。次がカンカンの筆箱。空色のノート。シャーペン。キーホルダー。そして中学の時、初めてできた恋人は、私より先に詩音とキスをした。


「だってお姉ちゃんの持ってるものってすっごく〝よく〟見えるんだもん!」


 詩音はいつだって、可愛い顔でそう言って、私の全部を奪っていくのだ。


「……詩音」


 目をつむり、深く息を吐き出す。


「………あんた、いい加減にしないと、そのうち週刊誌に嗅ぎつけられて仕事全部無くすわよ」

『えー!じゃあその時はうちで雇ってよ!お・か・み!』

「うちに怠け者なんか雇ってる余裕はない!」


 ぶつっと電話を切り、わなわなしながら携帯をカバンに突っ込んだ。


「どうしたのよー、七緒?そんなおっきな声出して」

 厨房の方から、母、橙子の声が聞こえてくる。

「また姉妹喧嘩かー?振られたからって詩音に当たるんじゃないぞ〜」

 わはは、と笑う父、勝己の声も重なってくる。


(うちの親は呑気すぎる!)

 

 だからあんな腹黒眼鏡の標的にされるのよ!

 と自分のことは棚に上げて、せめてもの反抗に不満げな沈黙を突き通した。


 七緒が薫と別れたことは、当然その日のうちに両親――どころか、その日「とと屋」にいた常連たちの耳にまで行き渡った。

 よかったなぁ。という声が多かったのは、七緒にとっては意外なことだった。


「七緒ちゃん、最近妙におしとやかじゃったけんのお」

「ありゃどうせ男じゃって話しとったんじゃわ」

「昔の七緒ちゃんにもどってよかったわぁ〜」


 このような調子である。気を使われすぎるのも嫌だが、これはこれでなんとなく腑に落ちない。






(私がこの宿を守る……――なんて言ったけど、具体的にはどうしようか)



 木桶と柄杓を手に、ぱしゃ、ぱしゃ、と真夏の熱気を放つ石のタイルに水をかけながら、七緒は憂鬱なため息を吐いた。


 民宿「とと屋」は、総客室数12部屋の小さな民宿だ。

 一階には厨房と、完全貸切制の檜の家族風呂、それから小さなダイニングスペースがあり、二階と三階は客室になっている。

 東京生まれ東京育ちの二人が、売りに出ていた古民家を買い取り、夢の民宿を始めたのは七緒がまだ小学生の頃。

 

 客入りが悪いわけではない。でもすこぶるいいわけじゃない。

 家族三人がつつましやかに暮らしていくには、申し分ない程度。


(………でも)


 ぴしりっと、七緒の額に青筋が浮かぶ。





『立地は素晴らしいと言えますよね。施設こそ貧相でニワトリ小屋レベルですけど(笑)』




「っっっっうちの!!どこが!!ニワトリ小屋だってのよォ!!!」




 脳内いっぱいに涼やかな眼鏡ヅラが浮かび、七緒は怒りのまま抱えていた水桶を宙にひっくり返した。


(ああもう!思い出すだけでムカッ腹が立つ!)


 怒り心頭の彼女とは真逆に、青々とした生垣は嬉しそうに水滴を浴びている。


 別れを告げられてから数日のあいだはさすがの七緒も涙で枕を濡らしたが、さらに数日も経ってみれば、彼女の中に残っているのは憤りばかりだった。


(よく考えてみたら薫さんなんかデートのスケジュールも分単位で決めるし、お店の人にも横柄だし、説教はうるさいし、そのくせ誘惑に弱いダメ男だし、それにスムージも残す!いいとこなんか一つもなかったじゃない!)

(別れて大正解!)

(絶対許さないから!薫さ……いいえ!佐々木薫の!あの天まで届きそうな鼻っ柱を折るような超有名宿に!絶対うちもなってやる!)







 そう、意気込んではいるのである。

 ただ実際のところ、このささやかな民宿を都内の五つ星ホテルと並べるための策は一つもない。

 立地も客層も違う。

 それに従業員の数だって、向こうは千人規模の馬力があって、こちらはたったの三人ぽっち。


「……」


 土俵にいない。

 今のところどころか、数十年先だって、勝負になる兆しはどこにもないのだ。


 ――僕らはもともと釣り合ってなかった。


 そう断言した薫の声が耳の底で聞こえた気がして、七緒は込み上げてきそうになる虚しさをこらえ、もう何度目にもなるため息を吐いた


「失礼」


 低く小さな声が七緒の耳を掠めたのは、その時だった。

 はあい、と振り返る。

 そこにはきれいな顔の男性がひとり、頭の先から足の先までびっしょりとずぶ濡れで立っていた。 

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