第3話
松山道後――
江戸末期、松山藩の旗本であった桐谷幸三郎が三男、
「いらっしゃいませ、お客様」
「いらっしゃいませ、お客様」
その日もまた、総勢六十名の仲居たちが一堂に集められ、壇上に立つ女将の凛々しい声になぞらえるように接客用語を復唱していた。
「ようこそおいでくださいました」
「ようこそおいでくださいました」
「どうぞごゆっくりとお寛ぎくださいませ」
「どうぞごゆっくりとお寛ぎくださいませ」
それはまるで規律のとれた軍のそれだ。
はじめてこの光景を目の当たりにする者たちは皆、声のさざなみが織りなす壮観さに胸を打たれるが、彼だけは、それが見せかけのパフォーマンスであることを知っている。
(ばからしい)
彼はそう思う。
では、
あそこにいる何人が、心から人を労る声の調子を知っているだろうか。
あそこにいる何人が、迎え入れる喜びを胸に抱いているだろうか。
あそこにいる何人が、この旅館で寛ぐことの意味をわかっているのだろうか。
(……そんなことを考えることすら馬鹿らしい)
――しゃん。
彼が回廊を歩めば、不思議と人々は道を開けた。
「若様……」
「今日も素敵……」
夜を溶かしたような髪も。陶器のような肌に通った鼻筋も、涼やかな目元も、見るものにどこか人ならざる美しさを思わせる。
かすかに漂う
季節問わずに
この旅館を永劫、背負って立つものの証。
(――――――苦しい)
「
呼びかけられ、恭弥ははっと我に返った。
「……何か用か。
顔の向きは前方から動かさず、視線だけ声のする方に向ける。顔を見て相手を確かめずとも、気難しそうなしわがれ声の主は分かりきっている。
「来週の総会には、恭弥様も必ずご出席なさいますよう、奥様からのお達しでござますよ」
「……俺がいつ出ないと言ったんだ」
「今までのらりくらりと
「母から許しが出なかっただけだ。出来損ないの三男坊を衆目に晒したくなかったんだろう」
「………またそんな悲しいことを仰る」
榊の声がほんの少し労りを乗せた。
「わたくしどもは、皆、貴方様以上にこの旅館の主にふさわしい者はいないと思っております」
それが嘘偽りなく発された言葉だというのは、恭弥にも分かっている。
「……いい、榊」
しかし彼にとっては、「役立たずの不出来者」と罵倒されるより、こちらのほうがずっと堪えるのだった。
「心配しなくても総会には出る。今回は観光庁のお役人様も参加するんだろ。予算を取り付けてもらえないと、うちもあっという間に
「……遺産に登録されるのも、考えものですな」
恭弥は微かに口角を上げ、小さな支配人を正面から見つめた。
大きな耳に、小さな目。後ろに撫で付けた髪は、思い出の中の姿よりずっと白いものが混ざっている。ほこり一つないチャコールグレイのダークスーツも年々大きくなっていた。
「……少し出てくる」
恭弥は榊の視線から逃れるように身をひるがえし、正面入り口へと向かった。
「どちらへ」
「福山の料亭だ。市長に呼ばれてる」
「かしこまりました。では、ハイヤーを用意いたします」
「いい。いらない」
「なりません。春灯亭の格に関わる」
こうなった榊はテコでも譲らないことを恭弥は知っている。
不承不承、門前で待っていれば、榊の手配したハイヤーはすぐにやってきた。
肩肘張った黒塗りの車は、音もなく道路を滑る地球外生命体のようで、どことなく気味が悪い。
「それでは恭弥様。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
満足そうな榊に見送られ、ハイヤーはゆっくりと滑り出した。
恭弥は息を詰めたまま、音のしない車外へ意識を投じる。スモーク越しの外の世界は、あまりにも単調で、色のないものだった。
(――――――……息が苦しい)
**
紫檀色の羽織を風にひるがえし、道後の街を闊歩する祖父の姿は、まるで英雄のように恭弥の目には映った。
幼い頃胸をついた憧憬に裏打ちされ、この道へ踏み込んだはいいものの、現実はそうそう甘くはない。
「今日は駅の近くに泊まる。商談が長引いたことにしろ。榊に何か言われても上手く誤魔化せ。正直に話したら二度とお前のとこは利用しない」
ほとんど脅すような形でハイヤーを追い返したのは午後四時を少しまわった頃。
恭弥は今、尾道の駅に立っていた。
(海を隔てただけなのに、まるで別世界に来たみたいだな)
ここでは桐紋入りの羽織を着ていようが、誰も恭弥を恭弥と認識しない。それだけで、ずいぶんと救われる。
恭弥は改札を出ると海に背を向け、尾道の坂を登り始めた。
何かしたいことがあったわけじゃない。
とにかく、一人になりたかった。
瀬戸内海に面し、高低差のある尾道は坂と古寺が多いことで知られている。
曲がりくねりながら、思い思いの方向へ伸びる坂道を、勘に従って登り続ける。
その間も、頭を占めるのは、あの巨大で重苦しい旅館の行末だけ。
(………クソ、)
額から汗が滴り、息が上がるにつれ、身体の奥底に押し殺していた苛立ちや怒りが、滲み出すように湧き起こってくる。
(……潰れちまえ、あんなとこ!)
古臭いしきたりを重んじるばかりに形骸化したもてなしも、
数十年前から一つも変わらない内容の料理も、
なにもかも、かつての恭弥は壊してしまいたかった。
でもできなかった。
そんなこと、誰も望んでいなかったからだ。
現に今の恭弥は、発言権も決定権も、旅館の経営に関わる全ての権限を奪われている。
ただこの羽織を肩にかけて、決められた言葉を発することだけ求められた――人形も同然の存在。
こんなもの、俺である意味がどこにあるのだろう。
「……はあ、はあ」
疲れ切って、倒れ込むように階段に腰を下ろす。
視界の先には美しい夕焼けに染まる瀬戸内海が見えた。
息が整うまで、恭弥は座り込んで、海を見ていた。
胸には不思議と、泣きたくなるような
(……そうだ。違う、俺は、壊したかったんじゃない)
あの時の誰が望んでいなくても、
俺はただ、あの宿を……。
俺の、家を――――。
「大切なら、私が守らなきゃいけなかったのに……!」
はっと顔を上げる。
声の出所を探れば、恭弥が腰掛けていた石垣の斜め下方に、顔いっぱい涙で濡らした女性がいた。
なぜか靴は履いておらず、ストッキングはボロボロで、たった今といたように
長い髪もまたひどく乱れていた。
彼女の視線の先には、木造の小さな建物がある。
のれんには「とと屋」と屋号が書かれている。
彼女は何度も目を擦り、まるで自分の網膜にそれを刻み込もうとするかのように、食い入るように、その「とと屋」を見つめていた。
(誰だ)
知る由もない他人の声が、なぜか恭弥の胸を激しく揺さぶる。
理由はわからない。
しかし恭弥はそこに、かつての、自分の姿を見た。
春灯亭を守っていこうと足掻いていた、あの頃の自分を。
思わず身を乗り出して食い入るように見つめていると、彼女は不意に体を反転させた。恭弥は思わず身を低くさせたが、彼女はこちらには気付いていない。
かわりに恭弥の目には、決意を胸に燃やす彼女の顔がはっきりと見えた。
「もう誰にも、わださない!!!!」
表面的な美醜とは違う。
それは、壮絶な魂の美しさだった。
潮風に吹かれ、夕焼けに照らされて赤々と輝く彼女の瞳を、濡れたまつ毛を、恭弥はきっと一生涯忘れることはできないだろう。
「とと屋は、私ひとりで守ってみせる!!!!!!」
彼女が身を翻して「とと屋」の暖簾の奥に消えるのを見送って、恭弥はずるずるとその場にうずくまった。
(……なんだ、これ)
彼女の叫びに共鳴したかのように、心臓が、ばくばくと高鳴っている。
今すぐ駆けて行って、彼女の名を尋ねたい。
俺の全てを投げ打ってもいい。
あの子の助けになりたい。
顔が熱く、火照る。
「………――――まずい。惚れた」
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