第36話 自分らしく

「はぁ、はぁ」


 息を乱す。

 紬は倒れ込み、起きてくる様子はなかった。

 空を見て、血まみれの服が小雨に洗われていく。

 呼吸を荒くしているうちに、いつの間にか上空に舞う破砕した物たちは飛来したようだ。

 これでやっと、綾部紬を殺せる。


「殺す……」


 取りつかれているように、今日何度も呟いた。

 淡い夢の中にいるような感触を得つつ、上空を見ながらゆっくり彼女の方に顔を傾ける。


 カタカタカタ。


 靴音を鳴らしながら、死人同然の彼女に近づくと。


「私は人殺しだ。そこを退け、明月今日間」


 こんな状況でも微笑する今日間が、私の行先を拒んだ。

 どうやってこの場所が特定できたのか、彩夏の仕業か。

 何にせよ、今の私を止める術は既にない。

 私の未来は決まっている。今から彼女を殺すのだ。


「嘘だね。僕に嘘をつくなんて、結は学習しないね」


 何を根拠に言っているのか、どうせ問うたところではぐらかされるだけだ。

 だから、私は今日間の首筋に刀を向けた。

 少し動かせば首が跳ねるくらいだ。彼は一度私に殺されかけている、そのため恐怖の方が勝つだろう。


 沈黙。


 動じない彼に、私はどうしようもない怒りを覚える。

 今日間に対する怒りではなく、この理不尽な自分の力に対する怒りだった。

 しかし、コントロールできない理性は、徐々に暴走していく。


「殺せないから何したっていいでしょ?」

「それはもう既に殺意ではないんだよ、結。いや、君の中に殺意があるのは事実かもしれない。でも殺したいわけでもなく、今の君は怒りに飲まれ、そして結を害とみなしている。それは害意でもある。君にはどちらも背負ってほしくないし、だって君は望んでいないだろう?」


 説得で今の私が止まることなど無理だ。

 確かに今日間の言う通り、私は既に殺意を持っていないのかもしれない。

 二度、紬を斬った時点で殺意は解消されていたのかもしれない。

 けれど、たとえ害意だとしても、これ以上怒りを抑え込むことは不可能だった。


「僕は君らしい殺意だけで十分なんだ」


 こいつはいつも殺意を嫌いながら、殺意を肯定してくれる。

 どうしてか、涙が少しずつ眼から漏れてくる。


「五月蠅い。害意でも何でもいい。怒りでもいい。私はもう殺す以外の選択肢を考えられない」


 絆されないよう、強く言の葉を飛ばす。

 歯を食いしばり、唇を噛みしめ必死に弱い心を押しつぶした。


「僕はここを退く気はない。邪魔なら僕を斬ってでも進むといいさ」

「明月今日間。やはりあなたの考えを改める必要がありそうね」


 今日間は何もわかっていない。

 平夜結の怒りは紬に向いており、彼を斬る理由はほんの少しもない。

 だが、邪魔をするならば言う通り彼を斬る。紬との明白な差は、自害させるまで追い込むか否かだ。多少の彼の負傷ぐらい、私は何とも思わない。


「……だから。そう、あなたが多少傷ついても構わない。そんな無駄な行為はやめろ」


 毅然とした姿勢を崩さない今日間に、そっと更に刀を近づける。


「自分すら騙せない虚言は、到底真言には対抗できない。わかってるはずでしょ?」

「随分と余裕ね。どうして私が虚言を言っているとでも?」

「だったら、とっくに結は僕を斬っている。躊躇うのは、斬りたくない本音の表れでしかない」

「五月蠅い。いつもわかったようなことばかり、私の何がわかるって言うの?」


 いつもわかった発言をする今日間が、時折嫌になる。

 人間に心を読む力なんて存在しない。彼の発現も憶測の域にしか過ぎない。

 平夜結という私の心を、憶測でしか見ない今日間が嫌になる。


「わかるさ」


 それは優しい声の色であった。

 馴染みのある温かな声に、私は一瞬だけ弱気になってしまった。

 その隙を逃さない今日間が、声を続ける。


「君の表情、声、仕草や癖、そんなものを見ていたら何となくわかる。現に今、少し涙を流している。殺意を認め、怒りに抗いたい証拠。そして何より、腕が震えているの、気づいてないでしょ? どう繕っても、君の本心は僕を傷つけたくないように見える」


 いつの間にか刀を持つ腕が震えていて、そんなことに気付かない平夜結は所詮、虚言を言うだけの弱き者だと認識させられた。

 揺れる刀の刃先、少しだけ今日間の首筋に浅い傷を入れていた。血が首元を伝い、どんどん垂れている。

 そんなことお構いなしに、今日間はさらに声を紡ぐ。


「結の本心が全てわかる訳じゃなくとも、少しくらいならわかる。それに、結はとても優しいからね。殺意に飲まれていないのに、他人を傷つける行為を望むとは思えないだけさ」


 チェックメイトだった。

 それ以上の反論の気概はなく、刀を地面に落とす。

 カラン。

 金属音が鳴ると、私は雨に打たれながら今日間にゆっくり近づく。よれよれの脚を動かし、全てが終わった。そう決定するには早すぎた。

 地面が揺れ、風が再び荒くなる。揺れの正体は波の暴走だ。ここは廃港、押し寄せてくる大波に飲まれてしまうかもしれない。


「キョーマ、コンテナを盾に」

「紬は? あの子はどこに行ったんだろう」


 いつの間にか今日間の背後で倒れていた紬が消えていた。

 姿がない人間を探す余裕はなく、私と今日間はコンテナの裏に身を置いた。

 波が自身の前後、視界の全てを支配する。

 幸い、コンテナが大きかったため、波に流されることはなかった。

 徐々に荒波が落ち着いて来ると、視線の先には誰かの人影がある。


「あなたを排除する」

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