第2話

影村の空は、どんよりとした灰色の雲に覆われていた。城田光は、村の中心部にある古びた旅館の一室で、窓から外の景色を眺めていた。昨日の事件以来、村全体が重苦しい空気に包まれているように感じられた。

光は深いため息をつきながら、窓際から離れて部屋の中央に置かれた小さな机に向かった。机の上には、昨日の出来事をメモしたノートと、妹・美咲の写真が置かれている。彼は写真を手に取り、妹の笑顔を見つめた。

「美咲...俺は必ず真相を明らかにする。君の死が無駄じゃなかったって証明してみせるよ」

光は静かに呟くと、写真を胸ポケットにしまい、部屋を出た。今日も村の調査を続けなければならない。昨日の事件で明らかになった「影」の存在と、村の因習。そして、妹の死との関連性。すべてが繋がっているはずだ。

旅館を出た光は、村の中心部へと足を向けた。昨日崩壊した影の館の跡地を調べるつもりだった。しかし、そこに到着すると、予想外の光景が広がっていた。

崩壊したはずの影の館が、まるで何事もなかったかのように元通りに建っているのだ。光は目を疑った。昨日確かに、自分の目で館が崩れ落ちるのを見たはずだ。それなのに、なぜ...?

「おや、城田さん。こんな朝早くからどうしたんですか?」

突然、後ろから声をかけられ、光は驚いて振り向いた。そこには村長の山田が立っていた。昨日、光に村の秘密を明かした人物だ。

「山田村長...これは一体どういうことですか?影の館は昨日、確かに崩壊したはずです」

光は困惑した様子で尋ねた。山田は不思議そうな顔をして首を傾げた。

「何を言っているんですか、城田さん。影の館が崩壊したなんて...そんなことはありませんよ。昔からずっとこの場所にあります」

光は言葉を失った。山田の表情には嘘をついている様子は見られない。しかし、昨日の出来事は決して幻覚ではない。光は確かに自分の目で見たのだ。

「村長、昨日の夜のことを覚えていませんか?私たちは一緒にこの館で...」

光が話し始めると、山田の表情が一瞬曇った。しかし、すぐに笑顔に戻る。

「城田さん、昨晩はゆっくり休めましたか?旅の疲れで少し混乱しているのかもしれませんね。私たちが一緒に館に入ったなんてことはありませんよ」

光は戸惑いを隠せなかった。昨日の記憶が鮮明に残っているのに、山田はまるで何も覚えていないかのように振る舞っている。これは一体どういうことなのか。

「すみません、村長。少し頭が混乱しているようです。失礼します」

光は軽く頭を下げると、その場を離れた。しかし、心の中は疑問で渦巻いていた。昨日の出来事は本当に起こったのか。それとも自分の妄想だったのか。

村の中を歩きながら、光は周囲の様子を観察した。村人たちは普段通りの生活を送っているように見えた。しかし、昨日とは明らかに違う雰囲気がある。村人たちの目が、光を追いかけているような気がした。

「ごめんなさい!」

少年は慌てて謝ると、すぐに走り去っていった。光はその後ろ姿を見送りながら、違和感を覚えた。少年の目に映っていたのは単なる驚きではない。それは恐怖だった。まるで、光が何か恐ろしいものであるかのように。

光は歩みを進めながら、昨日出会った森田老人の家に向かった。森田は村の秘密を知る数少ない人物の一人だ。彼なら、今の状況について何か知っているかもしれない。

森田の家に到着すると、光はノックをした。しかし、返事はない。何度かノックを繰り返したが、やはり応答がない。不安を感じた光は、ドアノブに手をかけた。するとドアは簡単に開いた。

「森田さん?いますか?」

光は慎重に家の中に入った。室内は薄暗く、静寂に包まれていた。しかし、何かがおかしい。家具や調度品が、昨日見たものとは明らかに違っていた。まるで、別の人の家に入り込んでしまったかのようだ。

突然、背後で物音がした。光が素早く振り向くと、そこには昨日会った森田老人ではなく、若い女性が立っていた。

「あなた...誰?どうしてここにいるの?」

女性は困惑した様子で光を見つめている。光も同じく混乱していた。

「すみません、私は城田と言います。昨日、ここに住んでいる森田さんにお会いしたのですが...」

女性の顔に怪訝な表情が浮かんだ。

「森田...?ここには森田という人は住んでいませんよ。私の祖父の代からずっとうちの家族が住んでいます」

光は言葉を失った。昨日確かにここで森田と話をした。そして村の秘密について重要な情報を得たはずだ。それなのに、なぜ...?

「申し訳ありません。間違えたようです」

光は深々と頭を下げると、急いで家を出た。頭の中が混乱している。昨日の記憶と今の現実が、まるで別の世界のことのように感じられた。

村の通りを歩きながら、光は自分の状況を整理しようとした。影の館は崩壊していないし、森田老人の家は別の人が住んでいる。そして村人たちは、昨日の出来事を全く覚えていないようだ。

これは一体どういうことなのか。光は村はずれにある小さな神社に向かった。そこなら少し落ち着いて考えられるかもしれない。

神社に到着すると、光は境内のベンチに座った。頭を抱えながら、ここ数日の出来事を思い返す。妹の死の真相を探るために影村に来たこと。村の因習と「影」の存在を知ったこと。そして昨日の事件。すべてが現実だと信じていたのに、今の状況はまるで夢の中にいるようだった。

「城田さん、こんなところにいたんですね」

突然の声に、光は顔を上げた。目の前には、昨日出会った村の青年・健太が立っていた。

「健太君...」

光は立ち上がり、健太の顔をじっと見た。彼もまた、昨日の事件を覚えていないのだろうか。

「昨日は...」

光が話し始めようとすると、健太が急に身を乗り出してきた。その目には、昨日見たのと同じ決意の色が宿っている。

「城田さん、聞いてください。村は危険です。あなたはここにいてはいけない」

健太の言葉に、光は驚いた。彼は昨日の事を覚えているのか?

「健太君、君は昨日のことを...」

「昨日のことではありません。ずっと前から...この村には秘密があるんです。そして、その秘密があなたを狙っている」

健太の声は震えていた。恐怖と緊張が入り混じっているようだった。

「どういうことだ?」

光が尋ねると、健太は周囲を警戒するように見回してから、小声で話し始めた。

「影の館...あそこは単なる建物じゃない。あれは『影』そのものなんです。村の歴史の中で何度も形を変え、人々の記憶を操作してきた」

光は息を呑んだ。健太の言葉は、昨日の体験と奇妙に符合している。

「そして今、『影』はあなたを狙っています。あなたが真相に近づきすぎたから」

「待ってくれ。それじゃあ、昨日の...」

光が言葉を続けようとしたその時、突然、境内に異様な風が吹き抜けた。木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。

健太の顔が青ざめた。

「来た...!城田さん、逃げて!」

健太が叫んだ瞬間、光の周囲の景色が歪み始めた。まるで水面に映った影絵のように、すべてが揺らぎ、溶け始める。

光は咄嗟に健太の手を掴もうとしたが、指はすり抜けてしまった。健太の姿が霧のように消えていく。

「健太君!」

光が叫ぶ声も、歪んだ空間に吸い込まれていった。

次の瞬間、光は暗闇の中に立っていた。周囲には何もない。ただ、どこからともなく聞こえてくる低い笑い声。それは、人間のものとは思えない不気味な響きだった。

「よく来たな、城田光」

声の主は姿を現さない。しかし、その存在感は確かに光を取り囲んでいた。

「お前は...『影』か?」

光は警戒しながら問いかけた。

「正解だ。よくぞここまで辿り着いた。しかし、それもここまでだ」

『影』の声が響く。光は周囲を見回したが、何も見えない。

「妹の死...村の因習...すべてお前の仕業なのか?」

光の問いに、『影』は低く笑った。

「人間たちが望んだことさ。私はただ、その願いを叶えただけだ」

「嘘だ!誰がそんなことを...」

「本当に知りたいのか?真実を知れば、もう後戻りはできないぞ」

『影』の言葉に、光は一瞬躊躇した。しかし、すぐに決意を固める。

「教えろ。すべてを」

「いいだろう。ならば、お前自身の目で確かめるがいい」

その言葉と共に、光の周囲の闇が晴れていった。そこに現れたのは...

突然、光景が変わる。光は影村の中心にある広場に立っていた。しかし、それは彼の知る影村ではない。古びた建物や、昔の装いをした村人たち。まるで、何十年も前にタイムスリップしたかのようだった。

「これは...」

光が周囲を見回していると、広場の中央に人だかりができていた。村人たちが何かを取り囲んでいる。光は人々の隙間から中を覗き込んだ。

そこには、一人の少女が縛り付けられていた。泣き叫ぶ少女の周りを、村人たちが取り囲んでいる。そして、一人の老人が前に出て声を上げた。

「我々の村を守るため、影の神に捧げる生贄を選出した。この娘を影の館に封じ込めることで、我々は平和と繁栄を得られるのだ!」

村人たちから歓声が上がる。光は震える手を伸ばし、少女を助けようとしたが、彼の手はすり抜けてしまった。これは過去の出来事の幻影なのだ。

場面が変わる。今度は影の館の中だ。少女が暗い部屋に閉じ込められている。そして、壁から黒い影が這い出してくる。少女の悲鳴が響き渡る中、影が彼女を包み込んでいく。

「やめろ!」

光は叫んだが、何も変わらない。少女の姿が影の中に消えていく。

再び場面が変わる。今度は現代の影村だ。光は自分の妹・美咲が影の館に入っていくのを目にする。そして、同じように影に飲み込まれていく。

「美咲!」

光は叫びながら目を覚ました。彼は神社の境内のベンチに座っていた。周りには誰もいない。静かな午後の日差しが境内を照らしている。

「夢...?いや、違う」

光は立ち上がり、周囲を見回した。確かに今のは幻影だったかもしれない。しかし、それは間違いなく真実を映し出していた。光は自分の胸ポケットに入れた妹の写真を取り出し、強く握りしめた。

「美咲...俺は必ず真相を明らかにする。そして、この呪われた因習を終わらせてみせる」

光は決意を新たにし、神社を後にした。彼の目的地は明確だった。影の館だ。あの館こそが、すべての謎の中心にある。そして、妹の死の真相もそこにあるはずだ。

村の中心部に向かって歩を進める光。しかし、村の雰囲気が明らかに変化していることに気づいた。通りを歩く人々の目つきが冷たく、まるで光を敵視しているかのようだ。

「あいつだ...」

「村に災いをもたらす者...」

「早く出て行ってもらわないと...」

耳に入る村人たちの囁き声。光は背筋に冷たいものを感じながらも、足を止めることなく進み続けた。

影の館が見えてきた時、突然、誰かが光の腕を掴んだ。

「城田さん!こっちです!」

振り向くと、そこには先ほどの健太がいた。彼は光を路地裏に引っ張り込んだ。

「健太君、君は...」

「説明している時間はありません。『影』があなたの存在に気づいてしまった。今、村中があなたを探しています」

健太の声には切迫感が満ちていた。

「でも、なぜ君は...」

「私は...私の祖父が、かつて『影』に抵抗しようとした者の一人なんです。その血を引く者として、この因習を終わらせなければならない」

健太の目には強い決意の色が宿っていた。

「分かった。協力してくれるんだね」

光が頷くと、健太は小さく微笑んだ。

「はい。でも、まず安全な場所に移動しましょう。ここでは『影』の目と耳があります」

二人は人目を避けながら、村はずれにある廃屋へと向かった。そこは健太の祖父が使っていた隠れ家だという。

廃屋に到着すると、健太は床下から古びた箱を取り出した。中には古文書や地図、そして奇妙な形をした鍵が入っていた。

「これらは祖父が残した資料です。『影』との戦い方が書かれているはずです」

光は真剣な面持ちで資料に目を通し始めた。そこには、影村の歴史や『影』の正体、そして『影』を封じる方法が記されていた。

「これによると、『影』は村人たちの負の感情や欲望から生まれた存在らしい。そして、定期的に生贄を捧げることで、その力を維持している」

光が資料から目を上げると、健太が深刻な表情で頷いた。

「そうです。そして、その生贄の儀式が...明日行われる予定なんです」

「何だって!?」

光は驚愕の声を上げた。時間がないことを痛感する。

「儀式を止めるには、『影』の本体である影の館を破壊しなければならない。そして、この鍵が重要な役割を果たすらしい」

光は箱の中にあった奇妙な形の鍵を手に取った。

「でも、どうやって...」

その時、突然、廃屋の外から物音がした。二人は息を潜めた。

「見つかったか...」

健太が小声で呟く。光は素早く行動した。

「健太君、君はここから逃げろ。資料と鍵を持って」

「でも、城田さんは?」

「俺が時間を稼ぐ。約束する、必ず再会しよう」

健太は躊躇したが、最終的に頷いた。彼は資料と鍵を持って、廃屋の裏口から逃げ出した。

その直後、ドアが勢いよく開け放たれた。そこには村の警備隊と、その先頭に立つ山田村長の姿があった。

「やはりここにいたか、城田」

山田の声には冷たさが滲んでいた。光は両手を上げ、ゆっくりと彼らに向き直った。

「村長...どうやら、私の正体がバレてしまったようですね」

「そうだ。お前が我々の伝統を壊そうとしている外部の人間だということがな」

光は冷静を装いながらも、頭の中で脱出の計画を練っていた。

「伝統?人を生贄に捧げることが伝統だと?そんなものは、ただの殺人行為だ」

「黙れ!」

山田が怒鳴る。警備隊が光に詰め寄る。

「お前には分からないのだ。我々の村の平和は、この儀式によって保たれているのだ」

「本当にそうでしょうか、村長」

光は冷静に言葉を続けた。

「『影』はあなたたち自身の恐怖と欲望から生まれたものです。それを外部の者のせいにして、自分たちの手を汚さずに済ませようとしているだけじゃないですか」

山田の表情が揺らいだ。その隙に、光は素早く動いた。彼は近くにあった木製の椅子を掴み、窓に向かって投げつけた。ガラスが砕け散る音と共に、光は窓から飛び出した。

「追え!逃がすな!」

山田の怒声が背後で響く。光は全力で走った。目指すは影の館だ。健太との約束の場所でもある。

暗くなりつつある村の通りを駆け抜ける。追っ手の足音が迫ってくる。光は小路や裏道を縫うように進み、何とか追っ手を振り切った。

息を切らしながら、光は影の館の前にたどり着いた。そこには既に健太が待っていた。

「城田さん!」

健太は安堵の表情を浮かべた。

「無事だったか。資料と鍵は?」

光が尋ねると、健太は頷いて鞄を示した。

「ここにあります。でも、これからどうするんですか?」

その時、村の中心から警報のサイレンが鳴り響いた。

「村中が動き出す前に、ここを何とかしなければ」

光は決意を込めて言った。二人は館の扉に向かう。しかし、扉は固く閉ざされていた。

「鍵を」

健太が差し出した奇妙な形の鍵を、光は慎重に鍵穴に挿入した。ぴったりと合う。

鍵を回す。すると、扉からは悲鳴のような軋む音が響いた。そして、重々しく開いていく。

「行くぞ」

光が言うと、健太も頷いた。二人は暗い館の中へと足を踏み入れた。

内部は想像以上に広く、迷路のように入り組んでいた。壁には不気味な絵画が飾られ、床には厚いカーペットが敷かれている。しかし、そのカーペットが、まるで生きているかのように蠢いているように見えた。

「気をつけろ。何が起こるか分からない」

光が警戒を呼びかける。二人は慎重に歩を進めた。

突然、廊下の突き当たりに人影が現れた。

「誰だ!」

光が叫ぶと、その人影がゆっくりと振り向いた。そこにいたのは...

「美咲...?」

光の妹だった。しかし、その姿は生きているときのものではない。透き通るような幽霊のような姿だった。

「兄さん...どうして来たの?」

美咲の声が響く。しかし、その声には温もりがなかった。

「美咲、俺は真相を知りに来たんだ。そして、この呪いを解くために」

光が一歩前に出ると、美咲の姿が揺らいだ。

「だめ...帰って。ここにいると、あなたも...」

美咲の言葉が途切れる。そして、彼女の姿が黒い影に包まれ始めた。

「美咲!」

光が叫ぶが、既に遅かった。美咲の姿は完全に影に飲み込まれ、そして、その影が床や壁を這うように広がっていく。

「城田さん、逃げましょう!」

健太が光の腕を引っ張る。二人は影から逃れるように、館の奥へと走り込んだ。

階段を駆け上がり、次々と部屋を通り抜けていく。しかし、影は執拗に二人を追いかけてくる。

「もう、逃げ場がない...」

行き止まりの部屋に追い詰められた二人。そこは館の最上階にある広間だった。

「ここが...『影』の本体がいる場所か」

光はゆっくりと部屋の中央に歩み寄った。そこには、巨大な鏡が置かれていた。

「城田光...よくぞここまで来た」

鏡の中から、『影』の声が響く。そして、鏡の表面が波打ち始め、そこから黒い影が溢れ出してきた。

「お前が『影』か」

光は毅然とした態度で『影』と対峙した。

「そうだ。私こそが、この村の守護者にして、支配者」

『影』の声には傲慢さが滲んでいた。

「守護者だと?人々を恐怖に陥れ、生贄を要求する存在が?」

光の言葉に、『影』は低く笑った。

「人間たちが望んだことだ。彼らの心の闇が私を生み出し、そして私は彼らに安寧を与えた」

「嘘だ!」

光は叫んだ。

「確かに、人々の心に闇はある。でも、それを乗り越えるのが人間だ。お前のような存在に頼ることで、人々は自分たちの弱さから目を背けているだけだ」

光の言葉に、『影』の形が揺らいだ。

「城田さん!」

健太が叫ぶ。彼は古文書を広げ、何かを読み上げ始めた。それは『影』を封じる呪文だった。

「愚か者め!」

『影』が怒りの声を上げる。黒い触手のような影が、健太に向かって伸びていく。

「させるか!」

光は『影』と健太の間に立ちはだかった。黒い影が光を包み込む。

「城田さん!」

健太の叫び声が響く。しかし、光は『影』に飲み込まれながらも、声を振り絞った。

「続けろ、健太!これが、この呪いを解く唯一の方法だ!」

健太は涙を流しながらも、必死に呪文を読み続けた。

光は『影』の中で必死に抵抗していた。そこで彼は、『影』の正体を目の当たりにする。それは、村人たちの恐れや欲望、そして罪の意識が集まってできた存在だった。

「みんな...もう、恐れることはない。自分たちの力で、未来を切り開くんだ」

光の言葉が、『影』の中に響き渡る。すると、『影』の中に光が差し込み始めた。

「な...何だこれは!」

『影』が悲鳴を上げる。光は更に声を張り上げた。

「美咲!みんな!目を覚ませ!もう、誰かを犠牲にする必要はないんだ!」

光の叫びと、健太の呪文が重なり合う。鏡が大きく揺らぎ、ヒビが入り始めた。

そして──

轟音と共に、鏡が粉々に砕け散った。

部屋中に、まばゆい光が満ちる。

光は床に倒れこんでいた。健太が駆け寄る。

「城田さん!大丈夫ですか?」

光はゆっくりと目を開けた。

「ああ...なんとか」

二人が立ち上がると、部屋の様子が一変していることに気がついた。壁や床を覆っていた影が消え、明るい陽光が差し込んでいる。

そして、部屋の中央には、幽かな光に包まれた人々の姿があった。長年『影』に囚われていた魂たちだ。

その中に、美咲の姿もあった。

「兄さん...ありがとう」

美咲は優しく微笑んだ。

「美咲...」

光が手を伸ばすが、美咲の姿は既に薄れ始めていた。

「もう大丈夫よ、兄さん。私たちは、ようやく自由になれたの」

美咲の声が部屋に響く。光は涙を堪えながら頷いた。

「ああ...もう誰も傷つかなくていいんだ」

美咲を含む魂たちは、光に向かって感謝の言葉を述べると、次第に光の粒子となって消えていった。その光は、館の天井を突き抜け、空へと昇っていく。

「城田さん...終わったんですね」

健太が光の肩に手を置いた。光は深く息を吐き出すと、健太に向き直った。

「ああ、終わったよ。でも、これが新しい始まりでもある」

二人が館を出ると、既に夜が明けていた。村の人々が館の前に集まっていた。その表情には、困惑と恐れ、そして希望が入り混じっている。

山田村長が群衆の中から出てきた。その顔には深い疲労の色が見えた。

「城田...君は本当にやってしまったんだな」

光は村長の目をまっすぐに見つめた。

「はい。もう誰も『影』に支配されることはありません。村の人々は自分たちの力で未来を切り開いていけるはずです」

村長は深いため息をついた。

「私たちは...長年、自分たちの弱さから目を背けてきた。そして、その代償として多くの犠牲者を出してしまった」

村長は頭を深く下げた。

「本当に申し訳ない...城田君、そして犠牲になった全ての人たちに」

光は静かに村長の肩に手を置いた。

「村長...過去は変えられません。でも、これからどう生きるかは、私たち次第です」

村人たちの間でざわめきが起こる。長年の因習から解放された今、彼らは不安と期待が入り混じった複雑な思いを抱いていた。

その時、人々の輪の中から一人の老婆が歩み出てきた。彼女は trembling hands で光に近づいた。

「あなたが...私たちを救ってくれたのね」

老婆の目には涙が光っていた。

「私の孫娘も...『影』の生贄になったの。でも今、彼女の魂が自由になったのを感じたわ。ありがとう...本当にありがとう」

老婆の言葉に、他の村人たちも次々と声を上げ始めた。感謝の言葉、許しを求める言葉、そして新たな決意を示す言葉。村全体が、長い眠りから目覚めたかのようだった。

光は村人たちの声に耳を傾けながら、ふと空を見上げた。朝日が村を優しく照らし、新たな一日の始まりを告げていた。

「さて...これからだ」

光が呟いた言葉に、健太が頷いた。

「はい。村の再建には時間がかかるでしょう。でも、みんなで力を合わせれば、必ず...」

健太の言葉を遮るように、突然、警察のサイレンが鳴り響いた。村の入り口から複数のパトカーが入ってくる。

「まずいな...」

光は眉をひそめた。これまでの騒動で、外部の注目を集めてしまったようだ。

パトカーから降りてきた警官たちが、光たちに近づいてきた。その中の一人が前に出て、光に向かって話しかけた。

「城田光警部補...こんなところにいたとは」

声の主は、光の上司である佐藤警視だった。

「佐藤さん...」

光は緊張した面持ちで佐藤を見つめた。

「君には無断で任務を放棄した責任を取ってもらうことになるだろう」

佐藤の声は厳しかったが、その目には僅かな温かみが感じられた。

「はい、覚悟はできています」

光が答えると、佐藤はため息をついた。

「しかし、その前に説明してもらいたいことがある。この村で何が起きたのか、すべてを」

光は一瞬躊躇したが、すぐに決意を固めた。

「分かりました。すべてお話しします。ただし...」

光は村人たちを見渡した。

「この村の人々を罰するのではなく、彼らが新しい一歩を踏み出せるよう協力してほしいのです」

佐藤は腕を組み、しばらく考え込んだ。そして、ゆっくりと頷いた。

「分かった。君を信じよう。ただし、これからの調査次第では、厳しい処分もあり得ることは覚悟しておけ」

「はい、ありがとうございます」

光は深々と頭を下げた。

その後の数時間、光は佐藤たちに事の顛末を説明した。『影』の存在、村の因習、そして自分が取った行動のすべてを。信じがたい話ではあったが、村人たちの証言と、影の館に残された証拠が、光の話を裏付けた。

夕暮れ時、一連の聴取と現場検証が終わった。佐藤は光に近づいてきた。

「城田...正直、まだ完全には理解できていない。しかし、君が多くの人々を救ったことは確かだ」

「ありがとうございます」

「だが、公務員としての規律違反は免れない。戻ったら、相応の処分を受けることになるだろう」

光は静かに頷いた。

「覚悟はできています。ただ...」

光は村を見渡した。村人たちは、警察や報道陣の取材に応じながらも、互いに支え合い、これからの村の在り方について話し合っていた。

「この村が、正しい方向に進んでいくのを見届けたいんです」

佐藤は光の表情をじっと見つめた。そして、小さくため息をついた。

「分かった。君には、しばらくこの村に残って経過観察をしてもらおう。それも君の任務の一環とみなそう」

光の目が輝いた。

「ありがとうございます!」

佐藤は軽く手を振ると、部下たちを率いて村を後にした。

夜になり、村は静けさを取り戻した。光は影の館の跡地に立っていた。館は完全に消え去り、そこにはただの空き地が残されていた。

「城田さん」

背後から健太の声がした。

「これからどうするんですか?」

光はしばらく空を見上げていたが、やがて健太に向き直った。

「この村の再建を手伝うよ。そして...」

光は懐から妹の写真を取り出した。

「美咲の、そしてすべての犠牲者の想いを胸に、新しい村づくりを見守っていく」

健太は力強く頷いた。

「私も協力します。この村を、誰もが安心して暮らせる場所にしていきましょう」

二人は固い握手を交わした。その瞬間、空に流れ星が輝いた。

「見えましたか?」

健太が空を指差す。光も空を見上げた。

「ああ...きっと、みんなが見守ってくれているんだ」

光の目に涙が光る。それは悲しみの涙ではなく、新たな希望の涙だった。

影村の夜空に、無数の星が瞬いていた。それは、かつてない程美しく、希望に満ちた光景だった。

長い間、闇に覆われていたこの村に、ようやく本当の意味での夜明けが訪れようとしていた。光は心の中で誓った。二度と誰も犠牲にならない、そんな未来をこの手で作り上げると。

そして、その決意は村人たち一人一人の心にも芽生え始めていた。彼らは互いの絆を深め、過去の過ちを乗り越え、新たな一歩を踏み出そうとしていた。

影村の物語は終わりではない。それどころか、真の物語はここから始まるのだ。光と健太、そして村人たち全員で紡いでいく、希望に満ちた新しい物語が──。

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