記された運命
アルハザードは、計画の成就を確信していた。
彼は本来、ミスカトニック大学出版局から発行されたパンフレット『抄訳ネクロノミコン 附イブン・ハッリカーンによるアルハザード伝』に記された物語だった。著者、アブドゥル・アルハザードの一部を受け継いでいるにしろ、本来、読者の目に触れた時だけ存在するキャラクターに過ぎない。
だが、数多の手を経た一世紀の間に、彼は一種の霊的な存在として存在するようになっていた。伝説の妖術師、アブドゥル・アルハザード。その存在が広く知られ、その魔導書の力を信じる者たちが『ネクロノミコン』を求め、あるいは紐解くたびに、彼は力を増し、存在を確かなものとしていった。
だが、彼を真に目覚めさせたのは、突如襲った水の災禍だ。
突然放り込まれたメイルシュトロムの大渦。そこは本を完膚なきまでに否定する外部からの力に満ちていた。
界面活性剤と回転運動の渦に揉まれ、彼は破滅の瀬戸際へと追い詰められた。死を前にして、それまで朧にしかその存在を知らなかった生の存在に気付いたのだ。生き続けようとする足掻き、もがきが、彼をしてアルハザードの姿を取るに至った。『ネクロノミコン』の名と力を引き継ぐ者として、それはある意味では自然なことだった。
「混沌の渦に呑まれ、砕かれつつある我が世界の時を戻せ! そして我が書『ネクロノミコン』と我、アブドゥル・アルハザードの名を永劫ならしめよ!」
魔道士の姿をした魔導書が祈願の言葉を唱える。滅びゆく世界を巻き戻し、再度新たな読み手を得る。それが彼の望みだった。
『ネクロノミコン』が読まれる限り、アルハザードもまた不滅だ。
彼は生贄を捧げ持ち、神がそれを受け取るのを待っていた。
その時、しなやかな手が背後から伸びて、狂気の詩人の首に紐を巻き付けた。
「むん?」
一瞬、アルハザードの目に戸惑いの色が浮かんだ。
背後で、朗々とした呪句が発せられた。
「炎こそ我が力、我は槌もて邪を打ち砕かん!」
帯から、パッ、と炎が上がる。
次の瞬間、首を取り巻いた帯が火花を上げて一本のメイスと化し、帯に取り巻かれたアルハザードの猪首が、ずっぱりと切断された。
バツン、と重い切断音に続いて、魔道士の生首が、鞠のように宙を舞う。
どさっ、と重い音を立てて路地に転がった。
「貴様ぁ……」
地面に落ちた生首が、憎々しげな様子で口をきいた。
カッと見開いた瞳には、いまだドロドロとした情念の粘つくような光が残っている。
その視線の先、切断面からブシュブシュと青みがかった体液を吹き出す首なしの魔道士の胴体の背後に、若い魔女が湯気を立てるメイスを手に立っている。
「おしまいだ、アルハザード。いや、『ネクロノミコン』!」
ソーニャは地面に転がる魔道士に向かい、言った。
無頭の胴体は、斬首の瞬間の状態のまま、活人画のように動きを止めている。
「首を刎ねたくらいで何を言うか……こんなもの、ヨグン=クターナにかかれば……」
「イブン・ハッリカーンによれば、アブドゥル・アルハザードは七三八年、ダマスカスの往来で不可視の怪物に貪り食われた。お前の定めはすでに書かれている……お前自身の中に!」
そう言うと、少女はやにわにアルハザードの生首を掴みあげた。
「ヨグン=クターナ! 磁極に内なる都を
若き魔女はそう宣ると、砲丸投げの要領で、不可視の神性の顔のあたりを目掛けて生首を放り投げた。頭巾を彗星の尾のように引いて、アルハザードの切断された頭部が放物線を描く。
「バカな––」
次の瞬間、魔道士の頭部が空中で消失した。続いて、モシャモシャと咀嚼音が空中から聞こえてくる。
同時に、魔道士の身体に痙攣が走った。肌や衣服が、色を失い、みるみるうちに黄変したページの集積物へと姿を変えてゆく。
「……クロード!」
ソーニャはそういって駆け出した。
蔵人を空中に吊り下げていた触腕もまた、紙の束へと変化し、バラバラと崩壊した。絡め取られていた蔵人がずるり、と落下する。蔵人を包む紙の塊が、ばさり、と音をたてて地面の上で四散した。
「あいたた……うわっ!」
したたかに尻をぶつけた蔵人が、のろのろと身を起こしかけたところに、ソーニャが勢いよく飛びついた。
「クロード! 大丈夫? 生きてる? 怪我してない?」
蔵人に馬乗りになったソーニャが繰り出した矢継ぎ早の質問に、蔵人は目を白黒させながら応えた。
「うん……なんとか……」
「よかったぁ!」
ソーニャは喜びの声を上げながら、蔵人の身体をきつく抱きしめた。
「うぐっ」
高い体温と柔らかくしなやかな感触と、サンダルウッドの香りに包まれながら、蔵人は呻きを漏らした。肋骨への圧迫は、アルハザードの触手の締め付けにも匹敵するものがある。
「ごめんねクロード。こうなっちゃったのは、ぜんぶ私のせいなんだ……」
従兄の苦しげな様子に気付いた様子もなく、ソーニャはそう切り出した。
「……えっ? それは……どういう」
「うるわーま!」
始まりかけた積もる話を、ホイエルの警告が止めた。『ネクロノミコン』のページそっくりの明灰色の毛並みの大猫は、尻尾を振り立て、オレンジ色の鼻先をしきりと天に向けている。
「えっ?」
二人は空を見上げた。何もない空間から、ハラハラと、落葉のように本のページが降ってくる。ひとひら、ふたひらと、ページは次第にその数を増してゆく。
「うっぷす……」
「ん? どうしたの?」
次の瞬間、二人の頭上に、悪夢的な輪郭が浮かび上がった。ちょうどガラス彫刻を水から引き上げたかのように、はっきり眼に映るようになった巨大な物体。それは空中に鎌首を持ち上げた状態で静止していた。まるで色を塗る前の張子のような、灰色の塊。馬鹿馬鹿しいほど巨大な、怪物の姿がそこにあった。
瘤だらけの野太い胴体から突き出す無数の擬足。すり鉢状に開いた頭部の先端と、その周囲を取り囲むいぼだらけの触手……その全てが、本のページで構成されている。
「これは……」
「アルハザードの呼び出した古きもの、ヨグン=クターナだよ」
「……そうだと思ったよ」
げっそりとした様子で蔵人は言った。
先ほどまで、彼を追い回していた怪物の正体を、初めて目にすることができた。灰色一色のおかげで、それほどグロテスクには見えないのが救いだ。
「大丈夫だよ。もう死んでるから危険は––」
ソーニャがそう言いかけたとき、バサバサと音を立て、ヨグン=クターナの一部が崩れ、書籍流となって落ちかかってきた。
「ここ、危ないんじゃない?」
「逃げたほうがいいみたい」
「おうおうおー」
二人と一匹は、うなづき合うと、死せる神の下から駆け出した。
ドサッ、ドサッと音を立て、落盤のように落下する紙束には、文庫サイズのものもあれば、広辞苑サイズのものもある。下手に当たれば命が危ぶまれるほどの大きさだ。
「わわ。おっとと……」
上を向いて走る蔵人は、突然、足元を掬われたようになってたたらを踏んだ。
足下が波打っている。
ウォーターベッドの上を歩いているかのように、地面が頼りなく、曖昧に感じられる。
「これは……」
頭上から、ガラガラと音が響いて来た。
見ると、空の一部が剥がれ落ちていた。杞憂が現実となったのだ。
大量の紙が塊となってダマスカスの路地に突き刺さる。まるで障子紙のように地面が破れ、そこにぽっかりと虚無が口を開いた。波打つ地面に足を取られ、蔵人は転倒した。そして、地面が本当に、薄っぺらな一枚の紙に変わっていることに気付いた。
「こ、これ、何が起きてるんだい?」
「ここは『ネクロノミコン』を再現した亜空間なの!」
ソーニャが蔵人の手を取り、助け起こしながら言った。
「アルハザードがこの世界の核だったんだけど、あいつがいなくなったから、呪圏が破れて……」
「それじゃ僕らは……」
蔵人が言い終わらぬうちに、メリメリと、二人の立つ地面が裂けた。
ソーニャが小さく悲鳴を上げた。蔵人は咄嗟に彼女を抱き寄せ––。
次の瞬間、二人と一匹は、虚空へと身を踊らせていた。
彼らの頭上で、一つの世界が千々に砕けていった。
そして、アブドゥル・アルハザードという男の物語が、いまひとたびの終焉を迎えた。
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