ヨグン=クターナ

 先ほどから続く揺れと地鳴りは、今や最高潮と達していた。

「なうわうわうわっ!」

 縄の結び目に噛み付いていたホイエルが作業を中断し、声をあげた。

 一際激しい突き上げと共に、広場の地面に大きな亀裂が走った。

 続いて、広場の地面が持ち上がり、石畳がオーブンの中のスフレのように膨らむ。

 地面の下から、何かが現れようとしている。

 そしてついに、地面の膨らみが破裂した。

 火山の噴火のように、石と、土砂とが四方八方へと撒き散らされた。

 蔵人とホイエルの上にも、石のつぶてが容赦なく降り注ぐ。

 そして––。 

 無人のダマスカスの街に、咆哮が響き渡った。

 それは世界破滅のラッパ、神々の黄昏を告げる角笛、定命の者が聞くべきではない、呪われた音声だ。

 管楽器の音にも似ていながら、唇を振るわすようなブルブルとした振動を持ち、野獣のような飢えと、荘厳とも言える音楽的な響きの入り混じったなんとも形容し難い音だった。

 耳から入り込んだ不協和音が頭蓋骨の中で反響する。魂消るような咆哮に、蔵人は身を縮こまらせた。このまま聴いていると、シェイクされた脳みそが耳から流れ出てきそうだ。手を縛られ、耳を塞ぐことができないのが、何よりも残酷だった。

 ややあって、長々と続いた咆哮が終わった。

 やれやれと一息吐きかけた蔵人に、さらなる災厄が襲いかかった。

「うっ……」

 生き物の呼気のような、生あたたかな風が吹き寄せる。その、鼻の曲がりそうな悪臭に、蔵人は思わずうめき声をあげた。

 ものの腐ったような甘ったるさと、鼻の粘膜を刺すようなオゾンが入り混じった、吐き気を催す瘴気が立ち込める。大気に混じる毒気は、地下から現れた何者かが発散しているようだ。

 だが、蔵人は、匂いの原因を目に捉えることができなかった。

 怪物には、姿がなかった。

 地の底から、馬鹿馬鹿しいほどに巨大な穴を開けてダマスカスの街に身を乗り出した怪物。身体に積もった土や砂によって、かろうじてイモムシのような太った輪郭を見てとることができる。ちょうど水中のガラスに、ひと撒きの砂をまぶしたような塩梅だ。

 その身体は、空気と同じ屈折率の物質でできているのか。あるいは、光を曲げる特性を持っているのか。

 怪物は、アフリカ象よりも太い胴体の両側に、複数の歩脚を持っていた。どうやら穴から這いあがろうとしているらしく、歩脚がしきりに砂を掻きまわしている。怪物はのたくりながら、ずるずると地表へと這い出してくる。

 その有様を、蔵人は呆然として見つめた。

 地上に出た怪物は、驚くほど巨大だった。透明ゆえに、はっきりとはわからないとはいえ、まるで陸に上がった貨物船とでも例えられるだろうか。

 怪物は、身体をゆすって土砂をふるい落とした。砂と小石があられのように石畳の上で跳ね回る。あらかたの土砂を払い落とすと、怪物の姿はもうほとんど目では捉えられなくなってしまった。

 何も見えない。だが、何かがそこに居る。

 見えない存在に対する恐怖が、蔵人の意識を呑み込んでいた。

 それが見えたところで、何がどうなるわけではない。だが、蔵人は目を皿のようにして、地下から現れた脅威の兆候を必死に探した。自分の死が、どこまで接近しているかを躍起になって探ろうとしていた。

 その時、親指に、鋭い痛みを感じた。

「いっ……」

 痛みが、蔵人を正気付かせた。

「うるるわー!」

 蔵人の親指から口を離し、ホイエルがひと鳴きする。

「ホイエル?」

 そう呟いてすぐ青年は、手首を縛めるロープにわずかに余裕が生まれていることに気づいた。

 手が動く!

 蔵人は手首を回し、引っ張り、苦心して縛めを解いた。

 すぐさま、半身を起こして、足首に結ばれた縄に手をかける。

 ずるっ。ずるっ。

 目に見えない怪物が、石畳の上を這いずる音が近づいてきた。

 生臭い息が吹き寄せる。

 ずるっ。ずるっ。

 焦りに震える指先で、蔵人は懸命に縄に取り組んだ。

 目の前の作業に集中して、身の竦むような恐怖を忘れようとする。

 そしてようやく、努力が報われる瞬間がやってきた。

「よしっ、解けた!」

 そう言って蔵人はロープを放り投げた。

「わーまおう!」

 直後、ホイエルが蔵人の身体に飛びついた。バランスを崩した蔵人の身体が横倒しになる。

 バシッ!

 と音を立てて、なにか見えないものが、すぐ傍の地面に叩いた。

 石畳の上のロープが、するする宙に浮かび、まるで蛇のように鎌首をもたげた。続いて、ひとかかえもありそうな岩がそれに続いた。見えざる手はしばらくの間、ロープと岩とを弄んでいたが、食べ物ではないと気づいたのか、ひょい、とそれらを投げ捨てた。

 その間にも、蔵人とホイエルは、脱兎のように逃げ出していた。

 青年と猫の背後から、耳をつんざくような咆哮が上がった。

 それに続き、ずるっ、ずるっ、ずるっ、と、巨大な袋を引きずるような音が追いかけて来た。

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