対敵
ふわり、と灰色の和毛が宙を舞った。
見事な放物線を描き、水漆喰塗りの平屋根に着地する。
ホイエルに続いて、ソーニャが路地を飛び越える。危なげない着地を決めると、わずかな距離を駆け、隣家の屋根へと飛び移る。
魔女と猫は、パルクールさながらに、ダマスカスの屋根の上を移動していた。バステトの庇護によって強化された運動能力の持ち主であれば、複雑に入り組んだ路地を辿るよりも効率的に移動できる。
「大丈夫、きっと間に合う!」
ホイエルにというよりも、むしろ自分自身に向けてソーニャは言った。
アルハザード。
あの左道魔術師は、何かの目的のために外なる神を利用しようとしている。蔵人はそのための生贄として拉致されたのだ。彼の生命を差し出して、神の歓心を買おうとしている。
そんなことは断じてさせない。
地下を移動する物体が、アルハザードが地獄の底から呼び出した邪神なのだとソーニャは確信していた。
怪物の進行方向の先に、蔵人は居るはずだ。
ソーニャは走りながら背後に目をやった。また新たな土煙が背後に立ち上がっている。その距離はもう八〇〇メートルほどに開いている。こちらの方がずっと早い。
邪魔が入らない限り、邪神に遅れを取ることはない––。
そう思った刹那、ソーニャの足元が爆発した。
炎と煙を引いて、少女の身体が宙を舞う。
回転しながら空中に放物線を描き、砂まみれの路地へと落下した。
固い地面に華奢な身体が叩きつけられる、と見えたその瞬間、くるりと身体を捻り、両足から着地する。炎と煙が払われるとそこには、盾の印を結んですっくと立つ少女の姿があった。ソーニャの傍に、灰色の影が音もなく降り立った。ホイエルの瞳は、路地の向こうに射るような視線を送っていた。大猫は牙を剥き出しにして、威嚇音を立てた。
一陣の風が吹き、土埃が立つ。
道の先に立ち塞がる、大柄なシルエット。
岩のごとき上半身を晒して仁王立ちする、頭巾姿の大男。
アブドゥル・アルハザード。蔵人を拉致した張本人だ。
「……ここはうぬらのような者が来る場所ではない。疾く往ね」
ゴツゴツと、石を擦り合わせるような声でアルハザードはそう言うと、身体の脇に垂らした腕を水平に持ち上げる。
その両の手のひらに、ルビーのように燃える光球がチラチラと輝き始めた。
「何を勝手な。いったい誰のせいで––」
「ならば死ねッ」
ソーニャの反駁を、アルハザードが断ち切った。
燃える光球を乗せた両手を、目の前で打ち合わせる。
バンッ!
手のひらに挟まれた二つの光球が、真紅の鏃と化して奔る。
柏手の音が耳朶を打つより早く、ソーニャとホイエルは互いに反対方向に飛び退いていた。一方の光弾が地面に突き刺さり、爆炎を上げて破裂する。もう一方は狙いを逸れて、建物の開いた窓へと飛び込んだ。
新たな爆発が巻き起こり、道路に日干しレンガの雨を降らせる。
「む」
アルハザードは小さく唸りを上げた。今の一撃を避けるとは思っていなかったのだ。
フードの中で、燃える瞳がわずかにすがめられた。
「どこへ隠れた?」
おもわず口をついた疑問に、思わぬ方向から応えが返る。
「ここだ!」
強烈な拳が、アルハザードの脾腹を打った。
速度と重さに魔術を乗せた一撃が、無防備なボディに突き刺さる。爆炎と煙に紛れて背後に回り込んだソーニャの一撃に、巨体がぐらり、と傾いだ。次の瞬間、丸太のような腕が宙を薙ぐ。ソーニャは仰け反って強烈なラリアートをかわした。裏拳の巻き起こす旋風がソーニャの前髪を乱す。少女はそのまま背面宙返りで、大男から距離を取った。
ソーニャは拳闘のポーズで拳を構え、信じられない思いで大男を見やった。常人であれば内臓破裂まちがいなしの一撃を受けながら、カウンターを放ってくるとは。帯紐を巻きつけた右の拳に、ジンと痺れを感じた。アルハザードは、無造作な棒立ちになってソーニャに向き直った。
「あくまで我が計画を邪魔立てするならば……」
アルハザードはおもむろに腰に巻きつけた布を解いた。
布が一陣の風をはらみ、はためく。アルハザードが手首を振ると、次の瞬間、柔らかな布が一瞬に凝固して、金属の光沢で陽光を閃かした。栄螺のような拳の中に、三日月のように反りのある長剣が生まれていた。刀身に描かれた印によって、それがバルザイの新月刀と呼ばれる魔術武器だとソーニャにはわかった。
アルハザードが剣を構える。空いた手には、ルビー色の光球が再び生じていた。
ソーニャは銀の帯紐を伸ばすと、炎を喚んだ。
少女の手の中で帯紐は再びメイスへと姿を変えた。
かたや浅黒い肌をした筋骨隆々の大男。かたや黄金の髪を持つしなやかな少女。歳若き魔女と狂える魔道士とは、鏡合わせのように立って互いの次の一手をうかがった。
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