地底への降下

 魔女と猫は、祭壇の後ろに開いた開口部から降下していた。

「うーわうわ」

 先を行くホイエルが立ち止まり、心配そうにこちらを振り返った。

「大丈夫だよ、このくらい……っ」

 そう言った矢先に足をすべらせかけ、ソーニャは危うく壁に手を突いて身体を支えると、ふぅ、とため息を吐いて、ソーニャは燃えるメイスを掲げた。先端に灯した魔術の炎が、低い天井を舐める。光が照らし出した眼下には、千尋の闇の彼方まで、階段が果てしなく続いている。

 階段の一段一段は小さく、幅が狭く、その上、ひどく摩耗している。滑り止めを刻んだ傾斜路と言った方が実態に近かった。

 苦労するソーニャに対し、彼女の使い魔は危なげない足取りでトタトタと進んでい。傾斜路は、猫にはかえって歩きやすいようだ。それもそのはず、この階段は、四本足で歩く種族のために掘られたものなのだから。

 少女は慎重に次の一歩を踏み出し、大地の胎への降下を再開した。

「さっき言ったことだけど……」

 そろそろと傾斜路を降りながら、ソーニャが言った。

 先を行くホイエルが、足を止めて振り返る。

「うーにゃわー?」

「クロードを攫ったのが、アルハザードだって」

「うーなうわうわーわ」

「ありえないと思う? でも、洗濯機の中にこんなダンジョンがあるのだって、普通ならありえないよ」

 ソーニャは周囲の壁を見回した。

 階段あるいは傾斜路を挟む壁には、薄れかけた顔料で、ある種の壁画が描かれている。

「ここはね、本の中なの」

 おもむろに言ったソーニャの言葉に、ホイエルが頭を振った。

「うぉーるる、ろうろうお」

「でも、ここが何者かのスペルバウンドだっていうのはホイエルも賛成でしょ?」

 スペルバウンドとは、魔術的な場だ。魔術師が、自身の力を増大させるために作り出したテリトリー。結界と言い換えても、それほど、的外れではないだろう。その中では、魔術はより強力に働き、時に世界の形すら変容させうる。魔術師が世界に対して押し付ける、オルタナティブな現実だ。十分に強力な魔術師であれば、壺の中に桃源郷を作り出すことすら可能だ。洗濯機の中に巻く渦を見た瞬間から、ソーニャはここが何者かに作られた亜世界だと考えていた。少女の意見に、灰色猫は否定とも肯定とも取れる仕草で尻尾を振った。とりあえず話を続けろ、ということらしい。

「それで、この世界を作った存在が何か、という話なんだけど……紅い砂漠、ロバ・イル・カリイエ。名もなき廃都。地下へ降るスロープ……どれもこれも『ネクロノミコン』の記述そのものだよ」

 ソーニャはそう言うと、壁の画をぽんと叩いた。そこには、衣装を身につけたワニのような生き物が、初期人類と思しき生き物を八つ裂きにしている様子が描かれている。それはかつてアルハザードが目にし『ネクロノミコン』にも書き残した描写そのものだった。

「ここは魔術的に『ネクロノミコン』を再現した世界。要するに、私たちは今『ネクロノミコン』の中に居るってこと」

 フン、とホイエルは鼻を鳴らした。その尻尾がすこしばかり膨らんでいるのにソーニャは気づいた。

 怒っている。

 とんでもないところに連れて来られた、とでも思っているのだろう。

「わーうろわ? おろろろうお」

「あー、うん……それなんだけど」

 ソーニャには、こうなった理由に心当たりがあった。

「もしかしたら……『ネクロノミコン』を、洗濯物と一緒に洗っちゃったから……かも」

 少女の言葉を聞いて、灰色猫は緑の瞳をぐるりと回した。呆れ顔の使い魔に、ソーニャは更に言い募る。

「枕元に置いた拍子に、洗濯籠に落ちちゃったんだと思う……それに考えてみたら、あいつ、さっき英語で喋ってた……のアルハザードってこと」

 強力な魔導書には力が宿るという。

 腐っても鯛。抄訳版のパンフレットに近いようなものであっても『ネクロノミコン』には相違ない。

 御神体や呪物、人形や絵画など、信仰や恐怖、愛情や憎しみなどの強い感情を集めた無生物が、擬似的な生命を得て動き出す。血を流すキリストの像。髪の伸びる市松人形。夜歩く二宮金次郎像……そういった事例は枚挙にいとまがない。

「……ニホンではツクモガミって言うんだっけ」

 無生物が、自らのスペルバウンドを構えるまでになるというのは珍しい。とはいえ、ソーニャ自身、短い魔女としてのキャリアの中でも遭遇したことがないわけではない。最も有名な魔導書が今までどれほどの憎しみと渇望を集めてきたかを考えれば、あのパンフレットにも、何かしらの霊的力が宿っていたとしても、あり得ないことではない。

 そんなものが洗濯機に揉まれれば、いったいどうなるか。

 百年前の古い紙だ。出し忘れたポケットティッシュのように、容易くバラバラになってしまうだろう。

 生命が生き続けようとするように、擬似生命の多くも、自らの存在を保とうとする。

 一度生まれたものは、そう簡単には消えない。

 瀕死の『ネクロノミコン』が生き延びるための足掻きに、運悪く蔵人は巻き込まれてしまったのだろう。

 ソーニャは、蔵人を攫った大男の粘つくような眼差しを思い出した。

 あれは、怒りと恨み、それに、強い自己保存の欲求の色だったのだろうか。

「祟るなら私に祟ればいいのに……」

 少女は苦々しく、そう呟いた。

「生贄は一人で十分だ」

 胸中に、アルハザードの言葉がリフレインする。

 そんなことはさせるものか。

 ソーニャは松明と化したメイスを握り直すと、その足を早めた。

 階段の終わりは、未だ見えない。

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