怪人、アブドゥル・アルハザード

 はてしなく続くように思えた落下は突如終わり、ソーニャは空中に投げ出された。

 身体を捻り、受け身を取る。

 着地すると、砂にくるぶしまでが埋まった。靴下越しに、焼けた砂の熱を感じる。

 目の前に広がるのは紅い砂の海に、瑠璃色の空。

 中天で燃える太陽の放つ光の矢は、よそよそしい刺々しさで少女の眼と肌を刺した。

「……紅い砂漠……ロバ・イル・カリイエ?」

 ソーニャの唇が、虚無の四分の一、を意味する言葉を発した。

 それは、アラビア半島の南に位置する不毛の地。遊牧民が呪われた場所と避ける、禁断の土地。アブドゥル・アルハザードが『ネクロノミコン』で描写した真紅の砂漠が、目の前に広がっている。

 少女の困惑は、長続きしなかった。砂の波の上に、ついたばかりの足跡が、陽炎踊る砂丘へと続いているのを見つけたからだ。

 足跡も歩幅も、彼女の従兄の足よりも明らかに大きい。第三者だ。この空間を作り出した魔術師か。

「クロード!」

 ソーニャは足跡に沿って駆け出した。

 靴下履きに、砂の足場を物ともせず、ソーニャはほとんど人間離れした速さで駆けた。砂を巻き上げる風を、少女の胸が真っ二つに切り裂いてゆく。数分の後に、魔女の足は砂丘の頂点を踏んでいた。

 緑色の双眸が、三〇メートルほど離れて立つ背中を捉えた。

 男が振り返った。

 フードで顔を隠した、いわおのごとき体躯の大男。

 その裸の肩に担がれた従兄は、ぐったりとして、なすがままにされている。意識が無いようだ。

 ソーニャの瞳に、瞋恚の炎が燃え上がった。頭上で燃え盛る太陽に劣らぬ、焼き尽くすような眼差しで、正体不明の相手を睨みつける。

「その人を放せ!」

 半裸の大男は、ソーニャの視線を正面から受け止めた。フードの中では、毒蛇のような黄色い瞳が粘ついた光を湛えている。

「……生贄は一人で十分だ」

 岩の擦れるごとき声が、風に乗って届いた。

「この……!」

 その言葉が魔女の逆鱗に触れた。それが場違いなほど流暢な英語で発せられたことも、少女はほとんど意識していなかった。

 激情に任せ、ソーニャは砂を踏んで駆け出した。

 瞬きの間に、両者の距離が詰まる。

 大男がフードの中で何事かを呟いた。その手には、崩れかけた紙束があった。

 ザッ!

 だしぬけに、目の前で砂が吹き上がった。

 砂煙の中で、黒い影が伸び上がる。

 少女は咄嗟に横に飛んだ。

 鉤爪が空を切り、引き裂かれた風がひょうと鳴いた。

 ソーニャは砂の上を転がって立ちあがり、立ち塞がるものに相対した。

 それは概ね人間の形をしていた。長い鼻面と、頭の上に突き出す尖った耳。顔かたちはどことなく犬に似ていながらも、無毛で、灰色がかった皮膚はゴムのような質感をしている。前足は驚くほど人間の手に似ているが、後肢には牛や鹿のような蹄を備えている。極端な猫背のせいで小さく見えるが、まっすぐに立てば軽く二メートルに達するだろう。

 グルルルル……と喉を鳴らし、歯を剥き出しにした怪物は、貪欲な目でソーニャの身体を睨め付けた。

 それは、ソーニャをはじめとした魔女ならよく知る生き物、食屍鬼グールだ。

 砂漠や都市の地下に潜み、埋葬された遺体を常食するが、必要とあれば生きた獲物を狩ることもある。怪力で、しぶとい生命力を持つ。こう見えて知能も高く、ヒトの言葉を理解し、話す者も居る。なにしろ、彼らの一部は元は人間だったのだから。もっとも、ソーニャの目の前の相手は見るからに飢えと殺戮の衝動に支配されており、交渉の余地があるとは思えない。

 こういった時の食屍鬼は単独でも危険な相手だが、食屍鬼が単独行動をすることはごく稀だ。

 ソーニャの周囲で次々と砂柱が吹き上がった。

 その数、五つ。

 かくもいきなり現れた食屍鬼たちに、ソーニャは一瞬に取り囲まれていた。

 蔵人を担いだ怪人は、紙束を何処かへ仕舞うと、ソーニャと食屍鬼の群れに背を向けた。

「待て……!」

 長身の男の後を追いかけるソーニャの前に、食屍鬼たちが立ち塞がる。みな牙を剥き、鉤爪を見せびらかすように構えている。彼らに与えられた命令はは足止めというより、邪魔者の排除らしい。

 ソーニャは歯噛みした。

 今は蔵人より先に自分の心配をしないといけないようだ。

 食屍鬼が六匹。

 焦る少女を包囲した半人半獣の怪物たちは、舌なめずりしながらその輪を狭めてくる。砂塵舞う砂漠に、暴力の匂いが濃厚に立ち込めている。

 ソーニャは半歩下がりながらツインテールの結び目に手をやった。そして、そこにあるはずのものが無いことに気づき、唇を噛んだ。

「……お守り、部屋に置いてきちゃった」

 いつもなら髪留めの上から結びつけてあるお守りが、今に限ってそこに無かった。

 手痛い油断だ。

 強力な呪物であるそれは、ソーニャの使う魔術の基礎的な構成要素だ。

 徒手空拳で食屍鬼と渡り合うのは、ソーニャにとってもいささか無謀な行いと言える。

 だが選択の余地はない。

 ソーニャは、ほぞと拳を固めた。

 そのとき不意に、太陽がかげった。

 太陽を横切った灰色のなにか大きなものが、ソーニャの眼前に着地する。そのふわふわしたシルエットに、ソーニャはペリドットの瞳を丸くした。

「ホイエル!」

 まさしく、それはソーニャの頼れる相棒、長毛猫のホイエルだ。

「うーるる……ぎにゃっ!」

 食屍鬼の前に立ち塞がり、威嚇の声を上げかけたホイエルは、肉球を焼く砂の熱さにピョンと飛び上がる。

 その拍子に、猫の咥えていた銀灰色の帯がポトリと砂上に落下した。

 それこそは、ソーニャが部屋に忘れてきた大切なお守りだった。

「ホイエルえらい!」

 言いながらソーニャは銀帯に飛びついた。

 その動きに食屍鬼が反応する。

 鋭利な鉤爪が振り抜かれた。

 切り裂かれた空気が悲鳴を上げる。

 致命的な一撃を間一髪で潜り抜け、ソーニャは転がるようにして帯を掬い上げた。

 そのまま怪物の間合いから走り抜ける。手の中の帯をしっかりと握りしめ、ソーニャは思わず安堵のため息をおとした。

 それは、先祖代々の魔女たちの髪を編んで作られた、強力な護符であり、攻撃のための武器だ。

 これさえあれば、食屍鬼など怖い相手ではない。

 ソーニャは不敵な一瞥を怪物の群れにくれた。

「炎こそ我が力、我は槌もて邪を打ち砕かん!」

 両手で紐を握り、裂帛の気合いと共に胸の前で腕を開く。

 ぱんっ、と弾ける音がして、帯が炎を上げる。

 炎が千々に砕けた。次の瞬間、少女の手の中の銀帯は、鋼の光沢を放つ一振りの鉾槌メイスと変じていた。

 長さ、二尺。先端には柊の葉に似たフランジが放射状に広がり、柄には蛭巻に似た螺旋模様をして、針金を撚り合わせて作った一輪の薔薇にも似て見える。魔術武器としては炎を象徴するワンドであり、同時に、骨肉を打ち砕く暴力の器であった。

 武器の準備を隙と見てか、食屍鬼の一匹が襲いかかった。

 レスリング選手を思わせる鋭いタックル。しかも、ゴリラ並みの体重が乗っている。食らえばそのまま押し倒され、二度と起き上がれないだろう。

 ソーニャはそれを滑らかな体捌きでかわし、すれ違いざまの一撃を犬に似た頭部に叩きつける。

 ぼっ、と音を立てて、怪物の頭があっけなく弾けた。

 折れる骨の手応えはなかった。

 血と脳漿の代わりに撒き散らされたのは、灰色の紙吹雪だった。

 打ったソーニャ自身が、驚きの目で食屍鬼の残骸を見た。

 それはまるで、中身がうつろな紙張子だった。

 お菓子を入れたメキシコの紙細工、ピニャータにそっくりだ。

 呆気に取られたソーニャに対し、次の鉤爪が背後から迫る。

 たとえ中身のない張子でも、その鉤爪と牙は現実の脅威だ。

 生まれついて猫神バステトの加護を受けている少女は、その人間離れした反射神経で身を折って躱すと、跳ね起きざまにメイスを叩き込む。胴体をえぐられた食屍鬼は、仰向けに倒れこむうち、みるみる短冊状にばらけ、砂の上に文字通り崩れ落ちた。

 こいつら、いったい何?

 ソーニャは訝しんだ。

 シキガミ? 傀儡? あるいはゴーレムの類?

 形の良い頭蓋骨の中で、思考が目まぐるしく回転する。

 その一方で身体の動きには毛ほどの乱れもなかった。

 砂の上で、黄金の髪と銀のメイスが独楽のように踊る。ミキサーの刃が野菜をスムージーに変えるように、触れる端から食屍鬼たちは次々と解体されていった。それこそ、子供のピニャータ叩きのような一方的な展開だった。

 そして最後の食屍鬼が倒れる。風がその残骸を何処かへと攫っていった。

 戦いの舞を終え、ソーニャは息を吐いた。

「なーわーわ。うわーまま」

 声のした方を向くと、熱い地表の砂を掘り返した灰色猫が、砂の窪みで肉球を休めていた。緑の瞳には、普段めったに浮かぶことのない叱責の色がある。

「ホイエル……ごめん。ありがとう」

 ソーニャは目を伏せて、先ほど忠言を無視したことを詫びた。

 最低限の準備もなしで洗濯機に飛び込んだのは、彼の言うように無謀な振る舞いだった。ホイエルがお守りを持ってきてくれなければ、蔵人を助け出すどころか、自分がやられていたかもしれない。

 使い魔はしばしの間、半眼で若い魔女を見つめていたが、フン、と鼻を小さく鳴らし、ついと視線を逸らした。

「……うおろーろ。うぬわら?」

「うん。そう、彼を助け出さなきゃ」

 ソーニャは顔を上げ、砂丘の先へ視線を送った。くよくよしては居られない。

 眼差しの先、怪人の足跡は砂丘の向こうへと続いていた。

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