ソーニャ・葉月・プリンは魔女である。
「あれー……? おかしいな」
自室の八畳間で四つん這いになり、ソーニャはそう独りごちた。
すでに朝食を終えた今、黄金色の長い髪にはちゃんと櫛が入り、前髪と鬢の毛を除いてツインテールに結んでいた。身体のラインにフィットしたTシャツとジーンズ地のホットパンツを身につけて、溌剌とした雰囲気を纏っている。
少女は上体を起こすと、改めて混沌とした部屋を見まわした。
ベッドの枕元には、クレーンゲームの景品のぬいぐるみたちが横隊を作り、鏡台の前にはメイク道具や化粧水のボトルにまじって、エジプトのカノポス壺が鎮座している。本棚から溢れた本が作るタワーがニョキニョキとそこかしこに立ち並び、小卓の上にはデッサンやメモを記した紙が広げられている。壁はトライバルな木の仮面や革張りの盾、ペナントで埋め尽くされ、天井からは小さな鰐の剥製がぶら下がっていた。
ペリドットの視線は有象無象の上をぐるりとめぐり、最終的に箪笥の上のモフモフに留まった。
「ねぇ、ホイエル。私の本、見なかった?」
タンスの上で、五月人形のケースを避けてぐんなりと伸びた灰色のもふもふが、うっすらと目を開いた。
猫のホイエルはくわーっと大きく口をあけてあくびをすると、ソーニャと同じ、明るいグリーンの目をしばたたかせた。メインクーンの血を引くその巨体は、キャットコンテストの大きさ部門で優勝が狙えそうだ。ホイエルはソーニャにとって一番の友人であり、困った時の相談役だ。さらに、彼はソーニャの仕える女神、バステトの神使でもあった。
「ふーなわらー?」
大猫はそう鳴いて、鼻先でベッドの上を指した。
つかねたタオルケットから、黒鉄の直角が鈍いかがやきを覗かせている。
「ううん、『妖蛆の秘密』じゃなくて……」
ソーニャは手を振って相棒の指摘を否定した。
そこにあるのは、プリン家代々の家宝である魔導書『妖蛆の秘密』だ。それも、完全な状態で現代に伝わるオリジナルの最後の一冊である。この大著には、古代エジプトの暗黒の秘技がギッシリと詰まっている。希少価値という点では『ネクロノミコン』のギリシャ語版にも匹敵する、好事家や各地の図書館が喉から手が出るほど欲しがる一品だ。この本の一頁でも手に入るなら、人殺しも辞さないという連中は数え切れない程居るだろう。しかし、今ソーニャが探しているのは、この本ではなかった。
「昨日わたしが読んでたでしょ、『ネクロノミコン』の抄訳版……どこに置いたんだっけかな?」
ソーニャは困り顔で座り込んだ。先ほど、蔵人に貸してあげると言った『抄訳ネクロノミコン附イブン・ハッリカーンによるアルハザード伝』が、どうしたわけか見当たらないのだ。
「なうわうわ」
ホイエルはそう鳴くと、重ねた前足に顎を載せ、中断された微睡を再開した。
「ちぇっ。使い魔甲斐のないやつめ」
ソーニャはそう言って唇を尖らせた。
「いったいどこにいっちゃんだろー?」
実りなき捜索に倦んだ魔女は、畳の上に仰向けに倒れ込んだ。
その衝撃で、傾いた本の塔が一つ、書籍流となって崩れ落ちる。ソーニャはその様子を横目で見て、あとで直そうと心に決めた。
「うーん……せっかくクロードが興味を持ってくれたのになぁ……」
少女は天井を見上げてつぶやいた。
同居をはじめてこのかた、ソーニャは折を見ては蔵人に魔術やオカルトについてレクチャーを施していた。
彼に自分自身を守るための知識を付けてもらうというのがまず一つ。
蔵人との再会は、図らずも彼を、オカルトの世界に引き込むことになってしまった。爾来、彼は魔女や、魔術や、邪神といった、知らなければ一生無縁でいられた諸々に、好むと好まざるとに関わらず関係を持つようになってしまった。そのことに、ソーニャは忸怩たる思いを抱かないでもない。
しかし、もはや蔵人はオカルトの道に踏み込んでしまっている以上、最低限の知識は必要だ。
幸いなことに、彼はもともと、魔法やオカルトに興味がないわけでもなかった。意欲的な生徒である彼に教授するのは、ソーニャにとっても有意義な時間だった。なにより、好きな人が、自分の得意分野に興味を抱いてくれるというのが、ソーニャには嬉しかった。
「……好きな人、か」
そう呟いた唇に、ソーニャは指でそっと触れた。
あえて口に出すと、なんだか面映いような、くすぐったいような気持ちが込み上げてくる。
ソーニャは従兄の端正な顔を思い浮かべた。
それだけで、なんだか、お腹の底の方から、じんと温もりが広がってくるような気分になるのだ。
「……はやく恋人同士になれたらいいのになぁ……」
初めて、彼に特別な感情を抱いた時、ソーニャはまだ八歳だった。
「クロードをわたしのおむこさんにしてあげるね」
そう言った時、彼は「おおきくなったらね」と言って微笑したのだ。
その時は子供扱いされていることに、少なからず落胆したのだけれど……。
倍の年齢になった今でも、彼の態度は、あの頃とさして変わらないようにソーニャには思われる。
少女は胸元に手を当てた。
スポーツブラの支援もあって、仰向けの状態でも、お椀を伏せたような双丘はほとんど形を崩していない。母親譲りのスタイルの良さはソーニャの自慢だった。
魅力ないってことはないと思うんだけど。
同居生活を初めてもうだいぶ経つのに、二人の関係は単なるいとこ同士の範疇に収まっている。
襟元の開いた服を着たり、脚を出してみたり。彼に意識させるため、ソーニャは日夜密かな努力を重ねてきたのだが、今のところ、目覚ましい結果には結びついていない。
蔵人は優しくて、紳士的で……すこしだけ控えめすぎるきらいがある。
もちろん、そこが彼の魅力でもあるのだけれど。
香水とかつけたほうが良かったりするのかな? 彼はどんな香りが好みなんだろ……?
「……って、今はそんなことより『ネクロノミコン』を探さなきゃ」
はっと我に返り、ソーニャはともすれば脱線しがちな思考に区切りをつけた。
上体を起こして、ぽかぽかと火照った頬を掌で扇ぐ。
モーソーしてる場合じゃないぞ。
大人の魅力で籠絡作戦が捗々しくない以上、地道に共通の興味や趣味を通じて関係を深めていくのがまずは肝心だ。
そのためのアイテムこそ『ネクロノミコン』なのである。
ソーニャはあらためて腹ばいになると、ベッドの下を覗き込んだ。もしかしたら、壁との隙間などから落ちてしまったのかもしれない。
もぞもぞとベッドの下へと潜り込む少女にかまわず、箪笥の上の灰色猫はぷーぷーと寝息を立てるばかりだった。
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