『抄訳ネクロノミコン附イブン・ハッリカーンによるアルハザード伝』

 その日の朝も、安部蔵人はいつものように洗面所で髭をあたっていた。

 シェービングクリームの泡を洗い流し、タオルで顔をぬぐう。手で剃り具合を確かめ、よし、と鏡に向かって頷いた。

 そこに映るのは、二十歳そこそこの若者の顔だ。

 切長の目に鼻筋の通った端正な顔立ちだが、シャープさよりも柔和な印象が勝り、どこか大型の草食動物を連想させた。

「そろそろ散髪にも行かないとな……」

 額に落ちかかる前髪を指でつまみ、青年はひとりごちた。

 もともと、髭の濃い方ではない。以前の蔵人は髭剃りは二日に一度程度、散髪は二月に一度のペースで十分だと考えていた。

 だが、従妹と同居生活を送る今、決まって毎日髭を剃り、月に一度は床屋に通っている。年頃の女の子が身近に居ては、以前のような呑気な学生の一人暮らしと同じわけにはいかない。無頓着だった衣服にも、最近は気を使うようになっていた。

 噂をすれば影。

 蔵人がアフターシェーブを塗っていると、洗面所の扉が開いて、当の本人が現れた。

「クロード、おはよー……ふわぁ」

 蔵人の同居人、ソーニャがあくびまじりの挨拶をした。右手で口元を押さえ、左腕には洗濯籠を抱えている。

「おはよう、ソーニャ……だいぶ夜更かしさんだったみたいだね」

「本、読んでたら、つい……んむぅー」

 そう言ってソーニャは再び、あくびを噛み殺す。その様子に、蔵人は思わず微笑を浮かべた。

 気の強さを感じさせるくっきりとした眉。猫を思わせるペリドットの瞳。黄金色の長いまつ毛に、あくびの涙が珠を結んでいる。すっきりとした鼻筋の先端は少しだけ上向きで、尖り気味の顎と共に貴族的な印象を与える一方、頬はふっくらとあどけなさを残し、シャープな面立ちを和らげている。

 桜桃の唇はしっとりと艶々しく、乳色の肌は血の色を透かして健康的だ。卵形の顔を縁取るのは、蜂蜜色の長い髪。普段は頭の左右に分けてツインテールにしているそれは、今はわずかに寝癖をつけて、無造作に肩の上にかかっている。

 寝巻きがわりのTシャツの襟ぐりからは華奢な作りの鎖骨が覗き、布地にプリントされた赤濱大学のロゴを、その下の膨らみが、どきりとするような急角度で押し上げている。ジェラートピケのショートパンツの裾から伸びる健康的な太ももの、目に沁みるような白さに、蔵人は思わず目を瞬いた。

 同居を始めてもうしばらく経つというのに、蔵人はまだ、この少女の存在に慣れるということができていない。

 もしかしたら、一生かかっても無理なのかもしれない。

 従兄の内心も知らぬげに、ソーニャは洗面台と隣り合う洗濯機の前まで歩いてくる。少女が横に立った瞬間、ふわり、とサンダルウッドに似た匂いが蔵人の鼻腔をくすぐった。

「うー……ほとんど徹夜しちゃった……」

 ソーニャは目をこすりながら、小脇に抱えた籠の中身を洗濯槽の中に空ける。くしゃりと丸めたシャツやタオル、ホットパンツが雪崩をうって洗濯槽へと落下した。

 その中に灰色のカルバン・クラインが混ざっているのに気づき、蔵人は慌てて視線を外した。

 もしこの時、彼が目を逸らしていなければ、衣類の中に古びた紙束が紛れ込んでいるのが見えていたかもしれない。

「そ、そんなに面白い本だったんだね?」

 気まずさを誤魔化すように言った青年の声は、わずかにうわずっていた。

「うん。『ネクロノミコン』だよ」

 事もなさげにソーニャはそう応えた。

「ねくろのみこん……それって、もしかして魔導書?」

 蔵人が何気なく発した一言に、ソーニャが水を得た魚のように反応した。

「うん! 狂気のアラブ人、アブドゥル・アルハザードの手による魔導書『キタブ・アル=アジフ』。それがギリシャ語に訳された時に付けられたタイトルが『ネクロノミコン』。とっても有名な魔導書なんだよ」

 少女は早口にそう言った。一瞬のうちに、ペリドットの瞳から、眠たげな色が一瞬に拭い去られていた。

「へ、へぇー……」

 蔵人は従妹の勢いに押され気味になりながら、曖昧にうなづいた。

 ソーニャ・葉月・プリン。彼女は蔵人にとって叔父の娘にあたる。蔵人の押しかけ同居人であるソーニャは、この八月で十七歳になる。この年下の従妹が母方から魔女の血を引いていると知ったのは、つい最近のことだ。

 なんでも、彼女の家系は十字軍時代まで遡れる魔女の名門で、代々『妖蛆の秘密』なる魔導書を受け継いでソーニャでなんと十三代目になるそうだ。

 少し前、その『妖蛆の秘密』をめぐって大騒動が持ち上がり、それをきっかけにアメリカ、ロードアイランド州在住のソーニャと岡山県赤濱市在住の蔵人は八年ぶりの再開を遂げた。その事件はどうにか軟着陸させることに成功したものの、その後の成り行きから、ソーニャが蔵人の家に居着くはこびとなったのだった。

 そこまでは、まあ、よかったと言えるのだが……爾来、どうしたわけか、蔵人は魔術や、魔導書や、未確認生物といった様々なオカルト的事象にまつわる事件に頻繁に巻き込まれるようになってしまった。

 普通の人間が一生かかっても体験できないような経験が次々と襲いかかり、命の危機を感じたのも一度や二度ではない。その度に、ソーニャと彼女の相棒の活躍によってことなきを得てきたのだが……とまれかくまれ、今現在、蔵人は刺激に満ちた生活を送っている。

「きのう読んでたのは1922年にミスカトニック大学出版局から出た抄訳版だから、パンフレットみたいなものだけどね。正確には『抄訳ネクロノミコン附イブン・ハッリカーンによるアルハザード伝』」

 ミスカトニック大学といえば、アメリカ・マサチューセッツ州にある名門校だ。かの大学の図書館には、オカルトや魔術に関する書籍の世界有数のコレクションが並んでいるという話はソーニャの口から蔵人も聞いていた。だが、そういった書籍も発行しているとは知らなかった。蔵人は魔導書が大学生協に並んでいるところを想像し、すこし可笑しくなった。

「もしかして、クロードも読みたい?」

 蔵人の何気ない一言が、ソーニャの魔女魂に火をつけてしまったらしい。

「それじゃ……あとで貸して貰おうかな」

 きらきらとした瞳で言われては、蔵人としても無下にはできなかった。

「もし専門用語とか難しかったら教えてあげる。そういえばクロードは洗い物ない?」

「えっ、あっ、うん。僕は大丈夫だよ」

「おっけー。じゃあ回しちゃうね」

 洗剤と柔軟剤を投入し、ソーニャは洗濯機のスイッチを押した。しなやかな指に命を吹き込まれたかのように、旧式の洗濯機がゴトゴトと音を立てはじめた。

 洗剤を片付けると、ソーニャはひと仕事終えたぞい、といった様子で、くぅーっ、と身体をのばした。

 そらした胸の曲線が、普段にも増して強調される。双丘が引き伸ばすTシャツの襟元から、眩ゆいデコルテが大きく覗き、蔵人は目のやり場に困った。

「うー……ん? クロード? どうしたの?」

 突然あらぬ方向に顔を向けた従兄に、ソーニャは小首を傾げた。

「あー、いや、朝ごはん、なんにしようかなと思って」

 蔵人は装った何気なさで強引に話題を変える。

「んー、まだスパムあったっけ?」

「うん。じゃあ、スパムエッグでいい?」

「やった」

 ソーニャがはしゃいだ声を出した。

 こうして、いつもの朝の微笑ましいひとときは過ぎていった。

 一方、洗濯機の中では、衣類に紛れ込んだ『抄訳ネクロノミコン附イブン・ハッリカーンによるアルハザード伝』が水に洗われ、パルプ状に分解されつつあることに、まだ誰も気づいて居なかった。

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