間違って『ネクロノミコン』を洗ったら洗濯機の中がダンジョンになってしまった〜ソーニャ・H・プリンの冒険〜
ねこたろう a.k.a.神部羊児
プロローグ:紅い砂漠
熱い砂が、手のひらを焼いた。
砂丘の頂に、安部蔵人は呆然と座り込んでいた。
「いったい……何が起きたんだ……?」
青年の呟きを、砂をはらむ風が攫っていった。
目の前に果てしなく広がる砂漠。
蒼穹で燃える太陽が、容赦ない日差しを投げかけ、ゆらぐ陽炎が、砂の紅を空の青さへと溶かし込んでいる。
蔵人は信じがたい思いで、眼前に広がる大砂丘を見つめた。つい今しがたまで、自宅の洗面所に居たはずなのに。
気がついたら……砂漠だった。
なぜこんなことに?
ここはどこなんだ?
家には戻れるのだろうか?
頭の中が疑問符でいっぱいになる。
「……落ち着け、大丈夫。パニくるな。こんなこと、たまによくあることじゃないか」
あえてそう口に出して、蔵人は自分の状況を整理しようと試みた。
そう、たしか、洗濯機が止まったのだ。
洗い物を整えようとして蓋を開いたら、洗濯槽が渦を巻いていて、それで……。
「洗濯機の中に落ちた……はずだけど」
周りは見渡す限りの砂の海。あまり洗濯槽の中らしくはない。見上げても、そこには空があるばかりだ。もしかしたら、空中に洗濯機の入り口がぽっかりと口を開けてはいまいかと考えたのだが。
夢を見ているのか?
それとも、頭でも強く打って……。
そうすると、これは人生の最後に見る走馬灯というものだろうか?
「や、いやいや……」
怖い考えを追い払い、ともかく立ちあがろうと突いた手に、なにか湿ったものが触れた。
ぐっしょりと水を含んだ、紙の束だ。
この砂の海にあって、絞れば水がしたたりそうなほどに濡れている。紙のあちこちがほつれ、溶けかけて、空き地に読み捨てにされた雨後の漫画雑誌のごとき有様だが、かろうじて本の体裁は留めている。
蔵人が砂から取り上げて砂を払うと、Nから始まるアルファベットの題名が読み取れた。
「これ……もしかしてあの子が言ってた……魔導書?」
蔵人の脳裏に、つい先ほど交わした会話がよみがえる。
アル=アジフ……狂えるアラブ人……有名な魔導書……アラブ……砂漠……。
不意に影が差し、青年の連想は中断された。
反射的に見上げた蔵人に、空を背負って聳える巨大な人影が飛び込んできた。
どう見ても、身の丈二メートルは下らない。筋骨隆々の大男だ。下半身には、足首で絞ったゆったりとしたズボンを履き、赤銅色に焼けた肌を誇示するように上半身を晒している。頭には、赤い頭巾をアラビア風に巻きつけていた。その顔は影に沈み、さだかに見定めることは出来ない。ただ二つの目だけがギラギラと、熾火のような光を放っていた。
蔵人は、男の突き刺すような眼差しが、自分の手にある紙束に注がれていることに気づいた。そして、自然な連想で、魔導書と目の前の偉丈夫とを結びつけた。
「もしかして……アブドゥル・アルハザード……さん?」
影の中の眼光が、すぅ、と細まる。
それだけで、胸元に刃を突きつけられたかのように、蔵人の背筋に冷たいものが走った。
さん付けはよくなかったのだろうか?
そんな埒もない考えが浮かんだ次の瞬間、男の丸太のような腕が伸びて来た。
野球のミットのような手が、蔵人の手から紙束を奪い去る。
間髪入れず、男は反対の手で蔵人の喉輪を掴んだ。
あっと思った次の瞬間、蔵人の身体は大根でも引き抜くように軽々と吊り上げられていた。
首が締まる。
突然襲った肉体的な苦痛から逃れようと、蔵人は死に物狂いで大男の腿を脚で蹴り、万力のように締め付ける掌を拳で打った。
しかし、赤銅色の大男は蚊が刺したほどの痛痒も感じていないらしい。
喉にぎりぎりと食い込む指は少しも緩まず、しだいに息が詰まり、目の奥で星がチカチカと瞬いた。
気が遠くなり、視界が翳り始めた。
身体から力が抜けてゆく。
意識が闇へと飲み込まれゆく寸前、蔵人は、自分の名を呼ばれたように思った。
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