煙に巻かれてしまえば

オオバ

煙に巻かれてしまえば

 

 物語って奴はいつも唐突に1ページ目を迎える。

 俺の母親はいつもそう口にしていた。

 母親に言わせれば、悲劇も喜劇も外からみれば小説や漫画の1ページ目に過ぎないそうだ。ドラマも同様。

 ・・・・俺はいつからそう言った世界を物語だと思っていたんだろう。あれはありえない、これもありえない。都合がよすぎる、運が悪すぎる。

 所詮、主人公に力があろうが、登場人物が病気だろうが、何だとしても、1番最後に振られたサイコロが出る目が全てだ。そのサイコロには必ずしも当たりが入っているのかも分からない。

 俺はいつから、自分が人生と言う不条理の登場人物では無い、だなんて思い込んで居たんだろう。

 

 俺の物語には、誰にでも訪れる出来事が早くに訪れてしまった。

 たったそれだけの事、たったそれだけの事が俺を、俺の心を完膚なきまでに折った。

 

 もう俺の事を見て欲しかった人達は居ない。

 星の光も観測者が居なければ、なんの意味も持たない。

 

 ――――

 

 物を元あった場所へと戻し、掃除機も元あった場所へと立てかける。

 

「・・・・・・・・」

 

 今日もまた1日、家の掃除、とは名ばかりの整理だけで終わって行く。

 別に、この行為が必要な訳じゃない。

 寧ろ本来なら、日銭を稼ぐ事を優先するべきなのは、頭では分かっている。

 

 ・・・・死んでしまった家族を心配をさせてしまう事も分かっている。

 だが、それでも乗り越える壁が自分の背よりも大きかった。立ち直れるかなんて、まだ分からないけれど、だからこそあの日までと同じ自宅を維持する事で、自分の折れた心を死なない寸前で守っている。

 ・・・・きっと俺の家族なら、俺に腐って欲しくないって思うから。

 

 だけれど、あの日までと殆ど同じにしている自宅の中でも、2つだけ変わってしまった。

 それは・・・・俺のアトリエと、仏壇だ。

 

 すっかりと物置になってしまったアトリエを眺める。

 毎日の様にカラフルに汚れていた部屋も、今ではカラフルな物置。

 何せ今まで使っていた道具の数々が意味を持たなくなってしまったのだから当然だ。

 もう筆も随分と握っていない。腕も落ちてしまっただろう。専門も辞めて、絵も描けなくなった自分の手には一体何が残っているのか。

 主観ではもう全て手の平の隙間から零れて無くなってしまった。そう思う。

 

 ソファへと腰を降ろして、体重を預けて、意識を放る。

 1日は長く、短い。

 俺の1日は無為徒食、と短い。充実感を感じられる事は無い。

 諦めの感情が眠気へと案内してくれる。

 

 ーーーー

 

 

 朝。

 俺の一日は眠る時間の方が多い。

 寝ていれば家族に会えるからだ。

 ・・・・でも辛くなって目を覚ましてしまう。

「逃げ」そんな言葉が頭に残る。

 

 掴めない夢ほど、人に努力させてくれる。

 でも、その夢がもう二度と手に入らない物、失ってしまった物、この2つのどちらかなら....心を蝕み続ける「毒」と化す。誰が悪い訳でも無い。

 強いて言うとするならば、抱いてしまった事自体が矛盾を孕む不協和音。

 知らなければ得られない物、知ってしまったからこそ失う物、出来事は心の準備を待ってはくれない。

 

 ・・・・もっと優しくしてやれば良かった。

 ・・・・もっと恩を返せばよかった。

 ・・・・もっとくだらない事で笑えばよかった。

 

 世の人間は「これ」を遅かれ早かれ経験すると言う。

 俺は当事者になって見て初めて気づいた。これは俺にとっての「絶望」なのだと。

 絶望が、回避不可能、修復不可能、な物なら、俺の人生はいつからか詰んでいた・・・・と言う事なんだろうか?

 

 そんな事は有り得ない。

 

 頭の中ではそう思う。でも、割り切る事は余りに難しい。

 子供が欲しい玩具に全力を投じる事と同じ様に、今の俺は全力で迷路の中を彷徨っている。

 

 俺は一体何のために生きてきたのか。これから何の為に生きれば良いのか。

 

 生まれた意味は知らない、死ぬ意味は要らない。

 でも生きる意味は、活力は、人にとって、俺にとっては何よりも重要な物だった。これが俺の気づきだった。

 

 ソファに脱力しきる自分の身体を何とか起こし、仏壇へと向かう。

 あの日までは、母親が毎日仏壇に手を合わす意味が分からなかったが、今では俺も毎日欠かさずに手を合わせている。気づきは残酷だ。

 

 仏壇に並ぶ写真は3人、若々しいお父さん、お母さん、妹の紗夜しゃや

 仏壇の前には2つ箱がある、未だに片付けられない遺骨だ。

 

 ・・・・母は父が死んだ時、どうやって乗り越えたんだろう。元々父は殆どジゴロだったらしく、経済的な心配は無かったとはいえ、心労的不安、家事との両立の為に身体にも大きく負担がかかる様になった筈だ。

 父は家事も殆どしなかったそうだけど。

 

 ・・・・もううろ覚えだけれど、あの時のお母さんは気丈にどんなときもヘラヘラと笑っていた、怒る時もだ。それは小さな子供が心の底から気持ち悪いと思ってしまう程、貼り付けられた笑顔だった。

 ただ、仏壇の前だけでは違った。

 夜中、一人で泣いているお母さんを見て初めて知った。

 お母さんも悲しいんだと。

 

 ・・・・そう思えば母は乗り越えた訳じゃなく、俺達子供の為に「強いお母さん」であり続けて居たのかも知れない。

 あんなに無敵に思えた母も人間である事に変わりはなかった。

 

 ・・・・なんで今更こんな事を考えるのか、俺は自分が理解できない。

 

「・・・・・・・・ぁ・・・・」

 

 絞り出された小さな「ぁ」

 長らく声を出していなかったからか、乾いた声だった。

 何故「あ」を発声したのか? それは自身の頭に、生前の母親が庭や喫煙所で一服をする様子が思い出されたからだ。

 

 母は生前ヘビースモーカーだった。

 最盛期には毎日3箱吸っていたらしいが、母の事だ、少なめにサバを読んでいるに違いない。5箱は吸っていたんだろう。

 最近は紗夜の心配と、健康診断での数値が・・・・とかで1箱吸うかどうかと、努力していた方だったが・・・・それでもよく吸う方には変わり無かった。

 

 聞けば父親もタバコ好きだったらしく、2人の馴れ初めもコンビニの喫煙所らしい。なんとロクでも無く、ロマンの欠片も無い出会いだろうか?

 なのに、お盆の深夜には仏壇の方から2つ、煙が流れてくる。ただただ臭いだけなのに、何故かロマンチック・・・・だった。

 

 きっと、母にとってタバコはある種とても重要な儀式だったんだろう。俺が思い出に馳せるように。

 

 吸ってみるか。

 

 そう思った。タバコの臭いは苦手だし寧ろ嫌い、大っ嫌いだ。副流煙だけで咳き込みもしたけれど、母が吸っていたあのタバコだけは、「母」の匂いの1つだ。嫌いだけど、好きなんだ。

 

 これでもし俺もヘビースモーカーになってしまえば....紗夜に何と言われるだろうか? ....まぁまずクサイとは言われるだろう。今までも臭く無いのにクサイと言われのない批判を受けていたのだから、タバコを機として嬉々として言われる様になるだろう。

 

 ・・・・それももうないのか。

 

 とりあえずと、母のカバンを漁って見る事にした。

 雑多と溢れかえるカバンの中だが、ある程度区分けされていて、青色のライターと赤い外装のタバコを見つけるのに手間取る事は無かった。

 

「・・・・借ります。」

 

 カーテンを開けると、眩しい光が久しぶりに俺の目へと入ってきて、目の奥がずんとして痛んだ。

 暫く目を瞑ったままで慣らした後に、またゆっくりと瞼を開く。

 

「・・・・雑草って凄いんだな。」

 

 手入れのされなくなった庭の惨状は、一言で形容するなら「えらいこっちゃ」だった。俺は特段背が高い方では無いが、それでも平均はある。その身長を超えんとする雑草達の生命力に口を開けずには居られなかった。

 

「・・・・刈るか・・・・」

 

 庭の整備は3人交代制でやっていた。

 ・・・・いつの頃からか、俺が紗夜の分までこなしていた訳だが・・・・それも違うかもしれない。俺を不憫に思った母が、たまに代わってくれていたから・・・・本当に母には世話になっていた。

 

 押し入れから、手袋と、永らく使っていなかった鎌を奥から取り出し、早速作業に取り掛かる。

 鎌を使うのなんて、ここに引っ越してきた時以来だ。

 

「・・・・ふっ・・・・?」

 

 力を入れてみるが、ぎゅぅと音が鳴るだけで雑草が刈れない。

 鎌の刃先を良く見てみると、輝きが無かった。

 研ぐかどうかしないと使い物にならないみたいだ。

 

 軒先に鎌を立て掛けて、アトリエまでヤスリを取りに行く。

 昔、粘土で工作をした時に使った物が幾つかある筈だ。

 アレで何とか研ぎ器の代替は叶うだろう。

 

 ・・・・いつかの砌、紗夜に大手マスコットブランドのキャラ、カシアロールの彫像を作ってプレゼントをした事がある。

 何となく粘土をコネて、何となく彫刻刀で削って、何となく色付けをして。

 お世辞にもいい出来とは言えなかったが、まだ素直だった紗夜は屈託のない笑顔で嬉しがってくれた。・・・・多少ブサイクだとか、パチモンだとか、別モン過ぎて訴えられないだとか、言われはしたのを根に持ってはいる。が・・・・まぁ兄妹のじゃれあいだ。

 本当に仲が悪いなら目は合わせて貰えないし、口は聞いて貰えない・・・・昔の友人がそう言っていたのを思い出した。

 

 あの出来後も、俺が美術の道を志す様になった出来事の端くれだ。何時だって俺の原動力は家族だった。まるで美談だ。

 

 多くの道具が詰まるチェストの中から、ヤスリを探して当てて、適当な物を持っていく。これに関しては本当に10年と使ってはいないから、ヤスリは数種類あるが、違いがさっぱり分からない。だから適当だ。

 

 ヤスリをヒラヒラと遊ばせながら、庭へと戻る。

 軒先に腰を掛け、早速と鎌の刃先にヤスリを当てて撫でるように何回か這わせた。

 が、刃に過去の輝きが戻って来る事は無かった。

 ・・・・恐らくヤスリではだめなのだろう。昔、ハサミは研げた記憶があったのだけれど、仕方がない。

 新しく鎌自体を買うか、研ぎ器を買うとしよう。

 

 ――――

 

 いつもなら、通販で取り寄せる所だが、今日に限っては足が軽かった。

 楽しい記憶ををいくつも思い出したからだろう。

 きっと寝る頃には陰鬱とした気持ちに、いつもより強く戻っているんだろうが、今だけは忘れよう。

 

 外は随分と日が傾いていた。もう空は茜色に染まり、カラス達がかあかあと、憧憬を刺激してきてどこか寂しく泣きたい気持ちになる。

 

 時間が消し飛んだのには理由があり、それは俺が自分で髪を切っていたからだ。所謂セルフカット・・・・伸び散らかした髪の方がまだマシだったかも知れない。そう思える程に、俺の髪型は余りにガタガタで、笑いの種にすらならない珍妙な物だった。

 慣れないことはするものじゃない。

 

 髪の毛へと手を突っ込み、引き抜くと、手には小さく短い髪の毛が無数に付いてきた。

 

 今日は長めに頭を洗うとしようか。

 

 徒歩で数分。

 ホームセンターへと辿り着いた。

 どうやら少々混み始めている様で、車が結構忙しく出入りしている。

 

 店内へ入ると、涼し気な風が出迎えてくれた。

 外のどんよりとした暑さとは大違いだ。

 

 明るく天井の高いホームセンターを巡る。

 色々な商品に気を奪われそうになりながら、時に幸せな家族の風景に怯えながら、園芸用品のコーナーを見つけ、逃げる様に入る。

 

 吟味する間も無く、またも適当に物を選んで手に取り、レジへそそくさと向かう。ただし落ち着いてだ、この一点だけは守らねばならない。ただでさえ髪がガタガタでひょろひょろしている一般男性が、鎌なんて持って気を乱していれば、新手のテロリストにしか見えない。

 自分が買い物客である、と言う事をアピールしながら、落ち着いてレジへと鎌を置いた。

 

「袋はSを・・・・クレカでお願いします。」

 

 そう、袋に入れてしまえば、俺を誰からどう見ても無害な存在へ変わる。厨二病真っ盛りだった紗夜に「生きるだけで不審者、挙動が恐れを抱かせる、キモイ」等と非難轟々された俺の気難しさも袋の前では無力。

 

 ・・・・久しぶりの外出で少しハイになり過ぎたかも知れない。

 帰りの道、少し頭を冷やしたくなった俺は、小さい頃から良く遊んだ公園へと寄ることにした。

 

 着く頃には日も見えなくなってきて、徐々に暗くなり始めていた。それ故に近所の子供達も、もう帰った後だ。

 これからの時間はホームレスや、酔っぱらいが集まる時間になって行く。

 

 ・・・・と言うのは気が早く、夏は日が長い。まだチラホラと帰る帰らない問答をしている親子が居るようだ。

 

 よいしょ、とベンチへ腰を下ろす。

 

 ・・・・今日は何時に増して昔のことを思い出す。

 

 そこまで思ってハッとなった。

 もしかしたら、今日が俺が新しいページを開こうとしている・・・・のではないかと。

 俺の母親は言っていた。「いい事も悪い事も、何事も始まりは唐突なのよ。チャンスは失敗するリスクも含んでしまうけれどね・・・・でもはるアンタならきっと全部乗り越えて、必ずいい未来に行ける。だから出来ればでいいから紗夜の事も気にかけてやってね? 私だっていつか急に居なくなるかもしれないんだからさ。」

 

 その後、俺はそんなの気休めだってお母さんをからかったら、お母さんはハハハと笑って、細い目になると、俺の名前の意味を教えてくれた。

 ハルはハナグルマ、もとい、ガーベラから取っていて、どんな時も前へ進んでいける・・・・そんな意味を込めてお父さんと一緒に付けてくれたそうだ。

 

 俺の名前は父親からは最初で最後の贈り物....母親からは託された物だ。

 守るべき妹すらも失ってしまったけれど、俺に前を向けと呪いの様に、まるで祝福の様に、俺を前へ前へと崖から押し出そうとする。

 

「・・・・そんなに心配なら化けて出てみろってんだ・・・・そうしたらいくらでも・・・・」

 

 そう呟いた。

 

 返事は無い。

 

 膝元へと置いた袋をグシャリと握りしめ、虚しさを噛み殺す。

 ・・・・情けのないやつ・・・・

 

 自分にそう悪態を付きながら、そろそろ行こうかと腰を上げようとした時、不意に声を掛けられた。

 

「あ、あの! お兄さんをバックに絵を描いてもいい、ですか?!」

 

 声の方向へと振り向く、そこには高学年ぐらいの如何にも気弱そうな少年がスケッチブックを両手に抱えて、こちらにうるうるとした目線を向けていた。

 だけれど、ただの気弱な少年では無い、そう確信させる・・・・言わば大器とも呼べる何かを少年に感じた。

 

 それと同時にその凛とした瞳が美しく、危うい。そうも感じた。

 

「・・・・もうすっかりと日も落ちてきている。君、夜ご飯は?」

「多分食べました!」

 

 即答。

 今の問答だけで分かった。この子は変わり者だ。

 自分のする事に「多分」と付けるのは天才と馬鹿しかいない。

 

「家は近いの?」

「はい!」

「なぜ俺を描きたいんだ。」

「いえ、物憂げなお兄さんと木々の感じがマッチしていまして・・・・後髪の――」

 

 きっと集中するとテンションが上がるタイプなのだろう。

 少年はそう言うと、地べたへとスケッチブックを広げ、鉛筆を取り出した。

 ここで早速デッサンをしようと言う事だろう。まだ幼いが、いつかがむしゃらに、紗夜や母親を描いていた頃の俺にそっくりの情熱だ。どうせなら少し付き合って行く事にしようか。

 

「・・・・ふぅ・・・・仕方ない。もう少し休みたいと思っていた所だったんだ。・・・・袋は?」

「そのままで大丈夫です!」

 

 すぐに鉛筆の軽快な音が俺の耳へと入ってくる。

 どうやらあの歳にして、迷いがない。

 俺なんか目じゃない才能・・・・もう枯れたと思っていたが、少し悔しいものだ。

 

 これ退屈と、空を見上げ、一番星を探し始めた。

 見つけたのなら2番星、見つけたのなら3番星、とイタチごっこをやっている内に、少年は早くも声を上げた。

 

「出来た!!」

 

 少年が嬉々として見せてきた絵は・・・・もの凄く上手い、とは言えない物だった。いい意味で上手い、悪い意味で天井止まり。

 恐らく我流なんだろう、線のとり方が独特且つ、情景描写にも癖がある。俺の髪の毛なんか顕著だな。

 どんな色の載せ方をするかは分からないが、磨けるものは多分にある。

 

「中々に上手いな。」

「でしょう? ふふん!」

「色、色は塗るのか?」

「・・・・色・・・・ですか・・・・」

 

 色と聞くと、少年はしゅんと、顔を下へ向かせてしまった。

 

「・・・・画材買ってもらえないのか?」

「いえ、僕・・・・実は・・・・後天性の色盲なんです、それも重度なんです。殆どモノクロに見えてしまって....今見ている景色もモノクロだから・・・・かけないかも・・・・」

 

 この少年は色無き世界で生きている。

 そう言った。これだけの才を抱えていながら、1歩を踏み出せないのはそれが原因か。

 なまじ、最初から色を知らなければ、モノクロアートで彼は名を残せていただろう。

 

「買って貰った絵の具も、ずっと腐ったまんまです・・・・」

 

 その悲哀は場の空気を重く強ばらせた。

 彼もまた芸術を志した者、誰かが次の道へと導いてやらねばならない。・・・・だけれど、それは俺じゃない。

 

「スマホ、スマホは持ってるか?」

「あ、はい・・・・」

「あるなら少し貸してくれ。」

 

 少々強引に少年からスマホを引き剥がし、メモを開こうといつものパスコードを入れる。しかしスマホは綺麗な景色の待ち受けから変わろうとしない。

 

「・・・・悪い、開けてくれるか?」

「えっと・・・・何するおつもりですか?」

「俺の知り合いに良い絵の指導者がいる。先生なら君の悩みを解消し、次の目標を作ってくれるだろう。そんな先生の連絡先をメモしてやろうとだな。」

 

 少年は酷く疑わしい目をこちらへと向けて、後退りを始めた。

 

「・・・・お兄さんってもしかして怖い人・・・・?」

「いや、俺は・・・・そうだな、君と同じで絵を描くのが・・・・好き・・・・いや好きだった人間だ。」

 

 少年の疑わしい目は痛く刺さるが、少し和らいだように思う。

 少年は警戒態勢であろう、拳を握りしめながら、疑問を口にした。

 

「だった・・・・?」

「俺も君と同じ様に挫折を経験して・・・・俺は折れた。」

「・・・・でもお兄さんが折れたのならその先生って人も大した事ないんじゃ・・・・」

「俺は絵を描くのが好きだったとしても天才じゃない、それだけだよ。」

 

 そう言うと、自分でも不思議なのだが、右手に力が入ったらしく、袋がくしゃりと音をたてた。

 

 一時ばかりの沈黙。

 

 冷静に考えてみれば・・・・あれだけ良くしてもらった先生にご迷惑をかけてしまった事への自責の念だろうか。

 

 思案を重ねて、眉をしかめていると、少年の方から寄ってきた。

 

「なら僕はお兄さんに教えて貰いたいです!」

「俺は教えるのが得意じゃないんだ。悪いな。」

「いいなーいいなーお兄さんと絵仲間兼、師弟関係になれたら楽しいなー!!」

 

 少年の顔はすっかり上気していた、つい数分前に分かった事だが、この少年は集中し始めると人の話を聞かない気がある。

 

「はぁ・・・・分かった分かった。番号をメモするから貸してくれ」

「やった!」

 

 少年からロック解除されたスマホを受け取り、「先生」の番号をメモして手渡す。

 

 俺は1度たりとも俺自身の番号を書くとは言っていない。

 悪いな少年、大人は汚いんだ。

 

「じゃあ早速かけてみてもいいですか?」

「・・・・悪いな俺今携帯持ってないんだ。」

「ふーん・・・・そのお買い物は?」

「俺はクレカは実物派でね。」

 

 少年は歯をギリギリさせながら俺の目を一瞥した後、ふぅとため息をついた。

 子供相手とは言えどこまで見通されているのか、怖くなるな。紗夜を騙す時もこんなだった。

 ・・・・相手は自分が思うより大人って訳か。

 

「さぁ早く帰るといい。もう街灯に虫が集まってくる頃合だ。君の家族が心配してしまうぞ。」

 

 しっしっ、とジェスチャーしてやると、少年はチッと大きな舌打ちをして、「また今度ですからね」と言い残し、去っていった。

 

 まぁ、近所なんだ。いつか顔を合わせる事はあるだろう。

 

 ・・・・? なんだ・・・・俺は未来のことを考えたのか。

 

 掴み所の無い子供だった。聡明で気を使えて、それでいて天真爛漫。

 聡明な所は似ても似つかぬが、紗夜にも少しは似ている様に思う。

 

 ・・・・もし彼を紗夜の代わりと見てしまったのなら....俺は双方に失礼な事をしてしまったな。

 

「・・・・ふふっ・・・・すまん。」

 

 もうすっかりと暗くなった空へと、一人、言葉を流した。

 

 ――――

 

「・・・・あ」

 

 家へ帰ると、どうやら信じられない事に庭の戸を開けたままにしてしまっていた様で、生ぬるい風が家の中を循環しては、外へと出ていっていた。

 

 つまり、陰鬱と重く重く、保ってきた空気が、俺を後押しする様に出ていった。

 ほのかにしていた様な、母親の匂いが、紗夜の匂いが、家族の匂いが呪縛から解き放たれていく。

 

「・・・・荒療治な所は2人らしいや・・・・」

 

 お母さんも、紗夜も、天国で俺の事を嗤って・・・・そうしている気がする。終わってる所もあるのが、あの2人の魅力的な部分だ。所謂蠱惑的と言うやつだ。きっとジゴロのお父さんも、普段きっちりとしたお母さんのいい加減で粗暴でノンデリな所も好きだったんだろう。そうでなきゃただのマゾだ。

 

 でもやっぱり心はすぐに入れ替えれなくて、母親の部屋へと入ってすぐに扉を閉めた。

 

 香水と、ヤニと、今はもうしないけど・・・・お母さんが好きだったスルメの臭い。

 鼻が覚えているみたいだ。

 

 壁には俺が母の日と誕生日にプレゼントしてきた手製アクセサリが、年代順に横並びになっている。

 豪華になっては少ししょぼくなり、また豪華になる。

 最初は出来の悪い押し花だったのに、中盤には手縫いのぬいぐるみや風景のミニチュア水彩画・・・・そしてつい最近には3人でテーマパークへ行って撮った写真の手作りアクスタだ。

 こんな歳になって純粋に楽しめるか、と不安だったが....行ってしまえば、お母さんが笑っていて、紗夜も笑っていて、俺も自然と笑顔になった。

 

「・・・・・・・・・・・・死ぬまで借りるよ・・・・っ・・・・」

 

 大事にケース入れられ吊るされたアクスタを、自分の手にそっと握りしめ、俺は母親の、お母さんの部屋の扉を開け放った。

 

 ――――

 

 紗夜の部屋、妹の部屋。あの日から俺は天涯孤独になったけれど、これをすれば本当に正真正銘天涯孤独になる気がする。これは理屈じゃなく....気持ちの問題だ。俺の問題だ。

 

 ドアノブを握る右手が震える。

 

「お兄ちゃん開けちゃダメ」

 

 そう聞こえた、でもこれは紗夜の声じゃない。紗夜は俺の事を「お兄ちゃん」なんて呼ばない。ソレとかコレとかアイツとかアンタとか・・・・ある意味世間一般的に俺の事を兄として最低限慕ってくれていた。「最低限」だ。

 

 そんな奴が俺の事を突然優しく、「お兄ちゃん」等と言ってみろ、気持ち悪くて仕方がない。

 

 それにアイツは・・・・俺に前にいい加減に前へ進めって本気で叩いてくる、終わってるけど強いやつなんだよ!

 

 扉を勢いよく開け・・・・サッと閉める。

 最後の決別・・・・お別れみたいなものだ。これぐらいは許して欲しい。

 

 あんなガサツな性格からは想像出来ないぐらいに整頓され、ぬいぐるみやビジュアル系アイドルのグッズが均等に配置され、俺では名前も分からないようなオシャレグッズが壁に吊るされている。

 

 どれも持ち主が居ないせいか、悲しげだ。

 

 この部屋の中には1つ似合わぬ物がある。それは年季を感じさせる本棚だ。

 これはもう15年選手になる代物だ。これの所有権を争って紗夜とジャンケンをし、3回勝負だとか言う姑息な手を使ってなお、全敗を期した事は今でも鮮明に思い出せる。

 

 殆ど写真集やファッション誌、デザイナーの参考書、プログラミングの参考書と言った実用的な物が立ち並ぶ中、右上だけ、これまた古びた漫画が入っている。

 

 これは当時流行っていた小説のコミカライズで、まだ小学低学年だった俺達には少々早い代物だったのだが....2人で口裏を合わせて、お母さんに買ってもらい、見事最終巻まで読み切った物だ。

 

 俺も紗夜も案外似た感性をしていて、あれがカッコイイ、これは超カッコイイと言い合った物で・・・・紗夜が一時期、厨二病になったのもこれが1枚噛んでいる。

 

「・・・・・・・・・・・・」

 

 俺は久しぶりに1巻目を開いて、黙読し始めた。

 展開を覚えているせいか、すらすらと指が進む。

 なんでもない事、なんでもない事、だと分かっているのに目の前は万華鏡にでも通したかの様に、視界がブルブルと見づらくなっていく。

 

 あんな事があった。こんな事があった。

 嫌な事があった。楽しい事があった。

 思い出は関連付けられ、いくつも湧いて出てくる。

 

 思い出は色褪せないんだな・・・・ほんっとにクソだ・・・・

 

 今日はこれ以上読んでは、妹離れ出来なくなりそうだ。

 と、1巻目を閉じ、本棚へと戻そうとしたその時だった。

 よろついていた俺は本棚へと右足中指を激しくぶつけてしまった。

 

 とてつもない激痛と、ガタガタガタと倒れそうになる本棚。

 これはマズイと、なんとか揺れる本棚を非力な力で壁の方へと押さえつけた。

 

 しかし、本棚の上に積まれていたダンボールが落ちてきてしまったのだ。

 

 ガタン! だとか大きな音がしたのだから、何かを壊してしまったに違いない。

 恐る恐る、血の気の無くなった顔を床へと落とした。

 

「・・・・―――!!」

 

 驚き、その一言だった。

 

「たからもの」とクッソ汚い字で書かれたダンボール箱と、そのダンボールの中から落ちたであろう、真っ二つに割れた「不細工なカシアロールの彫像」

 

 ダンボールの中にはチラホラとだが、俺があげた拙いクソダサアクセサリーや、お母さんがあげた玩具のネックレスや指輪、果ては最近貰ったであろう本物のジュエリー等が見えた。

 

「なんだよ・・・・これ・・・・俺の玩具が宝石と同じ価値ってか? ・・・・ホント・・・・紗夜って見る目無いよな・・・・っ・・・・! あーあー! ほんと見る目の無いやつ!!!」

 

 こんなはずじゃなかった。

 涙は止めども無く、俺の心へと寂しさを送っては、唯一無二たる妹の憎たらしい笑顔が思い出される。

 

 本当に本当に、やかましいし、ノンデリな奴だったけど・・・・大事だった。

 

 ――――

 

「・・・・はー夜中は割と肌寒いもんだな・・・・」

 

 ひと仕事をやっと終えて、軒先に座り込んで、淹れてきたコーヒーに口をつける。

 絶妙な苦さと甘さが脳に染み渡って、意識を覚醒させる。

 

 改めて庭を見る。3段階に分けて行った芝刈のお陰でなんとか庭はすっきりとした。

 掘り起こした分はやがて直せねばならないが、まぁもうすぐ朝だ。今日の所はね。

 

 カチッ・・・・カチッ・・・・ボゥ

 

 ピンクライターはまだ生きているらしい。

 

 はぁ・・・・今思えばコンビニかどっかで吸ってみれば良かったな。大分愉快な遠回りをしちまった。

 

 赤いタバコの箱を開けると、そこには4本入っていた。

 そのうち1つを取り出して、とりあえずそれっぽく持ってみる。

 

「・・・・お、いいお膳立てだな。」

 

 空に日が入り始めた。今から俺は悪の道を体験しようと言うのに中々に神々しいシチュエーションだ。

 今日の出来事は嫌でも忘れられないだろう。

 

 カチッ・・・・ボゥ

 

 ライターの日をタバコへと近づける。

 

 しかし中々火が移らない。

 

「あれ....なんか付きにくいな....なんでだこれ....」

 

 理由も分からないまま、数秒試していると、もくもくと煙が立ち登り始めた。どうやらやっとらしい。

 

 ・・・・これでやっとお母さんやお父さんが愛した味が分かるわけかー・・・・案外美味いのかもな合法麻薬って言われる位だし気分も良くなるんだろうなー!

 

 パクっ....スぅーーー

 

 ・・・・

 

 ・・・・

 

 ・・・・

 

 

「おぇぇぇぇァァァァ・・・・!!」

 

 口当たりが不味かった時点で察するべきだった。

 これクソまずい、煙吸い込んだらもっとまずい、4乗ぐらいあるよこれ・・・・

 

 お母さんは、こんなのをお盛んな時は、毎日少なくとも60セットやってたって言うのかよ・・・・やべぇだろ病気にならなかったのが奇跡だろ・・・・浸るどこじゃねぇだろ・・・・

 

 軒先に手をついて、どこからか聞こえてくる嗚咽と二重奏を朝の住宅街に奏でて居ると、背後がポゥと明るくなって臭いがしてきた。

 

「・・・・・・・・うわぁぁぁ!! やべぇ! 水! 水! ああ! 違うこういう時は!!」

 

 少し取り残した雑草を媒体に、咄嗟に投げたタバコで火が出たのだ。

 庭にまとめたままの雑草のゴミ袋まで燃えてしまえば俺は大放火犯だ。

 

 上のシャツを脱ぎ、火へと叩き被す。しかし残念ながら火の勢いは衰えなかった。

 急いでリビングの蛇口で服を濡らし、それを被せることで、何とか名実ともに一命を取り留めた。

 

 流石にこれは洒落じゃ済まないからやめてくれ・・・・!!

 

 

 青年は悪びれない様子で、朝焼けの空に責任転嫁を放った。

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