第15話
受け取って一口噛むと旬の林檎の甘味が口いっぱいに広がった。
「美味しい。それに可愛い」
素直に感想を口に出すと祖母が鼻を高くした。まるで自分の手柄のような仕草に千恵は目を丸くした。
健ちゃんの前にいる祖母は千恵の知らない女の子の様だ。
「昔から健ちゃんは器用なのよ」
「さっちゃんは不器用だったね。何度教えてもうまくできなかった」
「いいのよ……わたしは食べる専門だから」
その言葉に千恵はびっくりした。
家族の中にいる幸は料理も上手で家の中もいつもきれいに片づけられて何でも家事ができる人に見えていた。みんなおばあちゃんに頼めばなんでも解決するとさえ思っていた。
「おばあちゃんでもできないことがあるんだね」
「そりゃそうよ……。でも妻で母になるとね、なんでもできる顔をしなきゃいけないから」
その言葉に千恵にはわからなかった苦悩を垣間見た気がした。
「ごめんねおばあちゃん」
「やだ、なんで謝るの? そういうものなの。それに何でもできるふりをしているうちにちゃんと形になってきたしね。バレなかったなら成功よ」
ふふふと明るく笑う幸が当たり前でそういうものだと思っていた。だけどその陰でどれだけ努力をしてきたんだろう。こんなに近くにいたのに知らない事ばかりだ。
「それにしてもこんな風に健ちゃんの顔を見られるなんてね。最後に逢えるのかしらって考えていたところだったからびっくりよ」
もうここに来ちゃいけない、そう言われた言葉を守って幸は二度とお店に近寄らなかった。もちろん幸がどこでどう暮らしてきたのか健ちゃんに伝わることもなかっただろう。
こんな年齢になって、こんな姿で再会するなんて。
喜ぶ祖母を健ちゃんは柔らかく見つめた。瞳の奥にしっかり残そうとするほどまっすぐに。
「ぼくも逢えると思ってなかったから嬉しい」
健ちゃんは祖母の手を握ると祈るように額につけた。
「ねえ、さっちゃん」
健ちゃんは誰にも聞かれないようにと秘密を打ち明けるような小さな声で囁いた。まるで神様にバレないようにと隠れるようなひっそりとした声で幸に言う。
「お願いがあるんだ」
あまりの真剣な声色に幸も体を縮めて「なあに」と聞く。
千恵がいることが憚られるような二人だけの世界。
「また逢いに来ていいだろうか。あの時もう二度と逢わないって言ったけど……千恵ちゃんの言う通りだ。この先短いぼくたちに、また、があるなんて思えないだろ。せめて少しだけでも、入院のお見舞いだけでも来ることを許してくれる?」
「ええ」と幸も答えた。
「健ちゃんが来てくれるなら嬉しい。逢いたかったの、ずっと、健ちゃんに逢いたかった」
「ぼくもだ」
長い長い時間を超えてようやく実った初恋。
決して若い時の様な激しさはなく、情と言うよりあるべくしたかたちに収まったというような静かな恋だった。
だからといってどうこうしたいわけじゃない。
ただ逢いたかった。
だた一緒にいて話しをしたかった。
それさえが許されなかったあの頃。それを取り戻すように健ちゃんは毎日お見舞いに来た。
それも自分をわきまえているというように、必ず千恵がいる時にだけ。決して二人きりで逢おうとはしなかった。
聞けば余計な噂が立つと困るだろう、と当然のように答える。千恵と一緒にまるで親戚の一人のような存在として病室に顔を出す。変に言う人がいないように、細心の注意を払っていた。
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