第11話
まるでここにはいない幻想を見ているような祖母に千恵は抱きついた。
「おばあちゃん!」
「ああ、千恵ちゃん」
ハッと夢から醒めたように祖母は千恵の頬に手を当てた。
「こんなに汗をかいてどうしたの」
その表情はいつもの祖母のものでホッとしながら「ううん」と答えた。さっきから早くなっていた鼓動が落ち着きを取り戻す。
「ちょっと走ってきただけ」
「そうなの、若いわねえ」
柔らかく綻んだ祖母の笑顔に疲労が見て取れた。
「おばあちゃん疲れた顔してる。足、痛いの?」
「そう? 昨夜は寝付けなかったからかしらね……でもどこも痛くはないわ。お昼寝もしたし元気よ」
「そう? ならいいんだけど」
どこか夢うつつに見える祖母の姿にさっきのあの人の姿が重なる。
強い風が吹いてカーテンが巻きあがった。外の景色が広がり、あのベンチに座っている男の人の姿が見える。
祖母に今あったことを話そうとして、言い出せないまま時間が過ぎていく。
さっちゃん。それはもしかして祖母の名前だった? 昔から千恵は祖母に似ているといわれていた。だからあの人は千恵のことを祖母と間違えたんじゃないだろうか。
さっちゃん。
今まで聞いたことがないくらい慈愛に満ちた響きだった。
先に口を開いたのは祖母の方だった。
「ねえ、千恵ちゃんおかしな話をするけど……あなた誰かに会わなかった?」
「えっ、なんで」
「なんとなく。ふふ、変なおばあちゃんね」
そう言いながらうつむいた祖母があまりにもさみしげで、千恵の胸がぎゅうっと押しつぶされそうになる。あの男の人もそうだった。何かをこらえるように、がまんして愛しさを飲み込んでいるような表情だった。
「会ったよ」
だから千恵は答えた。
「公園で男の人に声をかけられたの。わたしのことをさっちゃんって呼んだ。似ているから間違えたって」
「そう」
ため息のような声は年寄りの様でも、若い女の子のようにも聞こえた。
「なんとなくね、あなたから健ちゃんの気配がしたの。懐かしいわ。元気だった?」
「気配?」
「そう。嫌だわ、ほんとにわたしどうにかしたみたいね。でもわかったの」
祖母は揺れるカーテンに視線を向けると淡く微笑んだ。それは今まで見たことがないくらい綺麗な横顔だった。
「健ちゃんったらわたしがもう死ぬと思ったのかしら」
「ねえ、おばあちゃん、健ちゃんって誰?」
親戚の中にもそういう名前の人はいなかったはずだ。祖母の交友関係までは知らないけれど、今まで一度も出たことのない名前。
人づきあいの上手な人なので今までいろんなお客さんが遊びに来たけれど、健ちゃんと言う人はいなかったはず。
だけど二人の互いを呼ぶ響きからは親密さがこぼれだしている。
あの人もきっと祖母に会いたいんだ。だけど会えなくてあそこからずっと見守っている。そんな気がして千恵は祖母の手を握った。
「呼んでこようか。多分まだいる」
「ううん、いいの。健ちゃんにはまだ逢えないから」
「なんで?」
「ね、千恵ちゃん。聞いてくれる? わたしの秘密の話。誰も知らない遠い昔話」
そして祖母は話し出した。遠い初恋の話を。健ちゃんとの淡くせつない恋の約束。
それは誰も知らない祖母の秘密だった。
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