結実

 目が覚めて、僕の左腕に絡みつく先輩から抜け出した。

 スマホで時刻を確認すると昼過ぎくらい。

 どうやら6時間ほど寝てしまったようだ。

 彼女に急いでメッセージを送る。

「ごめん、先輩の家で寝落ちしてた。今から帰る。」

 送信が終わると僕はそそくさと帰る支度をする。

 ズボンを履いてベルトを締めていると、先輩が起きたようで「おはようございます。」と挨拶をする。

 先輩は布団で体を隠しながら「おはよー。」とだるそうに言った。

「僕、もう帰りますから。ちゃんと鍵閉めてくださいね。」

 僕はカバンを持って先輩に振り返って言った。

 先輩がねだるので最後にキスをした。


 家に帰ると、彼女は怒った様子で僕を出迎えた。

「なんで返信してくれなかったの?」

「ごめん、気づかなくて。」

「そんなに楽しかったんだ。」

「そうじゃなくて、お酒飲まされたんだ。」

 別に嘘は言っていないはずだ。

 彼女からのメッセージには気づかなかったし、気づいた時にはもう手遅れだったわけだから。

「でも、女の先輩と二人きりで一晩ってやばいでしょ。」

 まあ、普通に考えたらそうだろう。

「バイト終わったのも日付跨いでからだったし、すごく疲れてて...。それでたこ焼きを食べたんだけど、その時に少しお酒を飲んじゃって、すぐに寝ちゃったんだよね。」

 苦笑い混じりに弁明する。

 たこ焼きを食べたところまでは本当。そこからは結構嘘だ。方便というやつ。

「ほんとに?」

 彼女の疑いはまだ晴れない。

 だが、曇りのち晴れくらいの希望が見える言い方だった。

「ほんとほんと。そういうところは真面目だから。」

 これは真面目じゃない時に言うセリフだ。

 昨日も結局これを言って酒を飲んでいるのだ。

「まあ、ならいいけど...。」

 彼女は渋々納得したようだ。

 僕は「ごめんね、今度からはこういう疑わしいことはしないように気をつけるね。」とフォローをして、彼女の頭を撫でながらキスをした。

 彼女は僕を拒絶しなかった。

 キスは味がしなかった。


 それから僕は、たまに先輩の家に行くようになった。

 先輩の家でキスをして、セックスをして、帰る。それだけ。

 もしかしたらセックスフレンド的なものなのかもしれない。

 僕は最初、後ろめたい気持ちを抱えて先輩と行為をしていたが、先輩の家に行くと少しお小遣いをもらえるので、仕方なく続けていた。

 先輩の方はそれでもいいという感じだから、僕はこの関係について特に思うことはなかった。

 彼女との関係も至って良好で、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て、たまにデートに行って、キスをして、セックスする。

 まあ、普通だ。多分、世間的に見ても。

 先輩の家から彼女の家への帰り道でそんなことを考えていた。


「おかえり。」

 今日も彼女が僕のことを出迎えてくれた。

「ただいま。」

 彼女には友達と遊んでくると説明している。

 僕に友達はいないが。

「先シャワー浴びてくるね。」

 僕は彼女の横をすり抜けながらそう言った。

 彼女とのキスはない。


 シャワーを浴びてリビングに行くと、彼女が晩御飯を作ってくれていた。

「ありがとう。今日も美味しそうだね。」

 僕は素直に思ったことを伝えた。

 そして手を合わせて、小さく「いただきます。」と言い食べ始める。

 基本的に僕食事中あまり話さない。

 一人で食事をすることに慣れていたし、単純に話題もなかった。

 彼女も別に何か話してくるわけではなかったし、居心地の悪さも感じていなかった。

 そんなはずだったのだが、今日はどことなく雰囲気の悪さを感じた。

 中学時代、一ノ瀬と辻岡と僕の三人で話していたときの空気を僕に思い出させた。

 僕の目の前で物語が僕にとって悪い方向に向かっている雰囲気だ。

 おそらく彼女は僕に言いたいことがあるのだろう。

 今日の僕はいつもより食べるペースが早かったのか、彼女よりもかなり早く晩御飯を食べ終えてしまった。

 そして、彼女の方を少し見つめる。

 彼女が咀嚼していたものを飲み込みこちらをチラリと見た。

 そして、僕たちは同時に「「あのさ。」」と切り出した。

 僕は慌てて「先いいよ。」と彼女に促した。

 彼女は「ありがと。」と言ってから、「何かウチに不満とかある?」と聞いてきた。

「え、なんで?...特にないけど...。」

 実際、不満は特になかった。

「ほんと?最近なんかそっけないから...。」と彼女は寂しそうに答えた。

 態度に出てしまっていたのか、と少し反省した。

「ごめん、最近ちょっと落ち込んでて...。」

 最近、僕は愛がわからなくなってきていた。

 彼女と付き合い始めた頃は、確かに彼女のことが好きで、一緒にいたいと思えて、何より甘かった。

 なのに、最近は、味がしない。

 倦怠期かと思った。

 けど先輩からも味はしなかった。

 あるのはただの快楽と、焦燥感。

 漠然とこのままじゃダメだ、と思う日々。

「そうなの?ウチじゃ元気になれない?」

 彼女は僕の腕に抱きつきながら少し上目遣いで聞いてきた。

 これでも甘くはない。

 僕は「ううん、なれるよ。ありがとう。」と返して、いつもより強めに抱きしめた。

 この流れはアレをするやつだ。

 僕はいつも性欲に傷つけられて、性欲にその傷を舐められた。

 理性じゃ僕は救われない。

 もちろん性欲にも。

 何が僕をこうさせているのかがわからなかった。

 ただ一つ言えるのは、僕は愛情だけでは人と繋がれないということ。

「前の彼女さんはさ、生でしたら怒ったんでしょ?」

 彼女は僕の耳元でそう囁く。

「ウチはいいよ、生でしても。ユウトなら、いい。」

 彼女はそう言って僕の耳を舐めた。

 下に開けたピアスが僕の耳に当たって少し痛かった。

「大丈夫なの?デキちゃうんじゃないの?」

 僕の心配はそこだ。

「今日は大丈夫だよ。」と彼女は僕に向き直って微笑んだ。

 僕はもう一度抱きしめてキスをした。




 桜の開花がどうのこうのというニュースが流れる季節になった。

 生憎、最近の僕は花見をするような雅な気分ではなく、彼女に「友達と花見に行ってくるよ。」とだけ伝えて先輩の家に来ていた。

 時刻は昼過ぎだ。

「先輩は花見とか行かないんですか?」と僕は聞いた。

 先輩はお酒が好きなので、花見とかは行ってそうなイメージだった。

「うーん、行かないかなあ。河合くんが一緒に行ってくれるなら行くけど。」

 先輩は僕にそう返す。

 この、僕に依存する言い方がとても嫌いだった。

「じゃあ、行かないです。」

 僕は冷たく返す。

「冷たいなあ。...あ、そうそう、彼女ちゃんとはうまくいってるの?最近よくうちにくるけど。」と先輩はさほど気にしていない様子で僕に聞いてきた。

「うまくいってないわけではないです。ただ、彼女が結構生でしたがるので、妊娠が怖くて。」と素直に最近の彼女との性事情を打ち明けた。

「そういうことを聞いたんじゃないんだけどな。」と先輩は苦笑いした。

 そして「で、私の方が都合がいいから逃げてきてるんだ?」と意地悪く聞いてくる。

「まあ、そんな感じですね。」

 僕は面倒くさくなって適当に返した。

 先輩は「私とも生でしてるのに、私が妊娠するのはどうでもいいんだね。」と僕に言う。

「どうでもよくはないですよ。」

 実際はできても責任を取るつもりはさらさらなかった。

「じゃあさ、河合くんの赤ちゃん産んでもいい?」

 先輩は僕にそんなことを聞いた。

「いや困ります。...もしかしてできちゃったんですか?」

 僕は内心少し焦りながら先輩に聞いた。

 もしできていたなら本当に困る。というか、堕ろしてもらう以外に選択肢はない。

「うん...。生理来てなくて、検査薬使ったらさ。」

 先輩はなぜか嬉しそうに僕に言う。

「あの、無責任だとはわかってるんですけど、堕ろしてください。」

 僕はもう話を終わらせたくなっていた。

「産みたいって言ったら怒る?」

 先輩は僕に言う。

 僕の遺伝子にそれほどまでの魅力があるとは思えないのだが。

「怒ると言うか...。僕はまだ父親になる気はありませんし、もし産むとしても僕は関わりませんよ。」

「もう私とも会ってくれなくなる?」

「はい。会いません。」

 僕が絶対に譲らないと悟ったのか、はたまた先輩の頭の中で僕との子供を堕ろすよりも僕と会えなくなる方が嫌だと思ったのかは知らないが、先輩は「わかった。堕ろすよ。」と言った。


 僕は逃げるように彼女の家へ帰った。

 彼女はもう起きていて、いつも通り「おかえり。」と言ってくれた。

 僕は汗ばんだ体で浅い息をしながら、いつも通り「ただいま。」と返した。

 そして、彼女の横を小走りで通り抜けて、冷蔵庫を開けて2Lペットボトルの水にそのまま口をつけて飲んだ。

 なんとか吐き気を飲み込もうとするが、抑えきれずにトイレに駆け込んで嘔吐する。

 目がチカチカしてトイレの壁に勢いよく凭れた。

 彼女が「大丈夫?」と僕の背中をさすりながら心配してくれた。

 僕は「大丈夫。」とだけ答えて、口をゆすいでからベッドの方に歩き出した。

 その間も彼女が何やら騒いでいたが、僕には届かなかった。

 ベッドに横になって布団を頭からかぶる。

 嫌悪感がとめどなく溢れる。

 僕は今日、人の形をしたナニカに変わってしまったのかもしれない。

 今まで、もともとそうだったのにうまく自分を騙せていただけかもしれないが。


 気が付いたら夜だった。

 僕は、僕の知らない僕にブルブルと怯えて震えて、僕のやったことから目を逸らして、いつの間にか寝てしまっていたようだ。

 彼女は仕事に行ったみたいで部屋には僕一人だ。

 今のうちに連絡先を全て消して地元に帰ろうかな、とかそういうくだらないことを考えているうちに、僕はもともと軽薄で人間のクズだったことを思い出した。

 いつからかはわからないけれど、確実にどこかで僕は変わってしまっていた。

 一ノ瀬といた頃はこんな人間じゃなかったはずだ。

 なんでこうなってしまったのかすら分からなかった。

 でも、一つだけ、こんな僕にも分かることがあった。

 僕は生きてちゃダメな人間だ。

 無責任で他人に迷惑を散々にかけて、まだ逃げようとか考えている。

 取り返しのつかないところまで来たのに、まだ言い訳を探していた。

 もうどうしようもないんだってやっと分かった気がした。

 僕は立ち上がって荷物をまとめ始めた。


 彼女は帰ってきて部屋の明かりが点いていることに気づいてから「ただいま、起きてたんだ。」と言った。

 僕は「おかえり。僕、出て行くね。」と返した。

「え、急になんで?」

 彼女はまだ冗談だと思っているみたいだ。

「僕、君といたらダメなんだ。」

 そう言って僕はキャリーケースを引いて玄関から出ようとする。

「ちょっと待って!全っ然意味わかんないんだけど!」

「そんなの簡単な話だよ。」

 僕はこれまでのことを全て彼女に話した。

 先輩とセフレ関係にあったこと。

 先輩を妊娠させたこと。

 元カノにDVをしていたこと。

 そして僕が一ノ瀬のストーカーだったこと。

 全部を話した。

 もう僕に失うものなんてなかったし、僕が傷つくようなことももう残っていなかった。

 彼女は一言だけ、「キモ。」と言って玄関のドアを閉めた。

 ドアが閉まった時の大きな金属音が僕の頭に響いて、やっと僕は気持ちのいい夢から覚めた気がした。



 久しぶりに帰ってきた実家は埃っぽかった。

 新幹線で一時間ほどで帰ってこれたので、まだ朝だ。

 僕は一ノ瀬のSNSから知った大学名をマップアプリに打ち込む。

 死ぬ前に一ノ瀬に会いに行こうと思った。

 会えるはずないと思っていたけど、会わないと死ねないとも思っていた。


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